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「野生」に込めた思い~型にはまらず創り上げていく

1つめは父からの影響


私が
「野生の看護師」と名乗る意味。

大きく分けると3つある。
1つは父からの影響。

父のはなし(1)人間関係編
父のはなし(2)子育て編
父のはなし(3)父の好きなこと編

*・。*・。*・。*・。*・。*・。*・。

今回は
2つめの意味について
はなそうと思う。

それは
【型や枠にはまらずに
自らが切り開いて
創り上げていくぞという
意思表明】


これまで私は20年以上、
病院という組織の中で
看護師として働いてきた。


学校を卒業して、
地域の出産のほとんどを担う
中規模産院に8年。


そのあと
都内の大学病院に13年勤めた。

この
2つの病院での勤務を経験した。


更にその内訳としては

常に婦人科には所属して21年。
前半の13年は産科にもいて
後半の8年は泌尿器科にもいた。

主に、
というかオール下半身。


花形(というのが
あるかどうかはわからないが)で、
よくドラマとかになりがちな、

かっこよさそうな
循環器や脳外など
上半身の看護には無縁の
病棟看護師人生だった。


そこでずっと
「看護師さん」と呼ばれてきたのだ。
(1年目は、特定のドクターには
呼んでもらえていなかったが。)


肩書があることにより

その肩書があることにより、
大きな力に
守られているありがたさは
ものすごくあった。


「病院に勤めている」
「看護師さん」
というだけで
信頼してもらえたし


「立派だねぇ」
「すごいねぇ」と
どこに行っても言ってもらえた。


だけどそれは
「私個人」が
築き上げたものではなく、
肩書によるもの。


もちろん信頼してもらえたり
褒めてもらえることは
素直に嬉しかったし、
誇りにも思っていた。


というか、
今離れて改めて思うが
めちゃくちゃその
肩書に頼り切っていた。


辞めてからの方が、
しばらくの間
無意識に必死に
「看護師アピール」を
していたように思う。


こういうところで駆け回っていました(廊下は走ってはならぬ)




一方で「看護師」ということによる
マイナスの要素も、ごく一部で
感じたりもした。


患者さんから見る「医療者」は
時に「あちら側の人」。


おまえらにはわかんねぇ。
看護師さんに言ってもね。
患者の気持ちなんて…。

等々。


肩書によって
一気に構えられてしまう
抵抗感のようなものを
感じることも少なくなかった。



看護師は病気や生活のことを
真面目に相談したり、
世話をしてもらう人という
認識であるからか、

雑談やぶっちゃけ話などで
こちらが
急にふざけたりすると
ものすごく驚く人もいた。


「看護師さんとこんな話、
してもいいんだねぇ。」と
微笑んだ患者さんに
何人も会った。

ちなみに完全に余談だが、
看護師バレしたくない
センシティブな
お年頃という時期が
私にはあった。


なぜか、昔は
いわゆるダメンズに
出会いやすい私だったのだが


「看護師」と言うからではないか
という
ひとつの見解が挙がった。


いわゆるお金目当てで
近寄ってくるのでは…と
いうことになり、

いっとき、私の周りでは
【合コンで看護師名乗り禁止令】が
発令された。



合コンで看護師というと
安定的にモテるという要素も
少なからずあったので、
非常に悩ましい選択ではあった。


今思うと、
悩むのはそこじゃない
ということだけはわかる。

ダメンズたちには
沢山、勉強させてもらった。

話を戻すと、
私は病院で
「看護師さんだから」と
なんとなく線を引かれる
その感じに抵抗があった。


看護は病気だけでなく
「その人」全体をみる仕事。


その人全体ということは
その人を取りまく社会や生活も
全て視野に入れて
ケアをしていく。

病気や入院はあくまでも
その人生や
生活の一部にすぎない。


だから全体を広く
しっかりと見ていきたいという
気持ちでいたが、

そんな線を引かれた人に
大切な人生のこれまでや、
これからを、

そして心の内を話すであろうか。


私はもっともっと
「人間と人間」として
対話して、
その患者さんに
向き合っていきたいという
気持ちが強かった。


もちろんその場でいろいろな
努力もしてきたが、

「病院にいる看護師さん」という
肩書を超えてみたかったと
いうのもあって
病院を辞めてみた。


縦ではなく横に

それともう1つ。
「型」とか「枠」も
そうだけど、

それが
「縦」に伸びていくのではなく、
「横」に広がるイメージで

人や社会と、
医療や生きることを
私は融合させたかったと
いうのもある。


病気か健康か、
家か病院か、
生きるか死ぬか、

の縦割り二分割ではなく、

病気でも健康でも
居たい所で、在りたい姿で生きる。


生きる選択の中にも
その人らしさをしっかりと考えて
その人がちゃんと選び取ったものを
反映させていける社会にしたい。


そのためには
あらゆる垣根を壊して
横に広がり、繋がって、
交わって、融合していく感じ…

が、必要なんじゃないかなって
思ったのである。

白衣を脱いだらただのおばさん


私が白衣を脱いで社会にポツンと
ひとり置いてみたら、
ただのおばさんだった。


だけど、
そのただのおばさんにも
価値がある。



みんなただの人なんだけど
ただの人って=価値がないって
思いがちかなっていう気も
している。


たぶん、
私の言い方だけなのかも
しれないが
みんなそれぞれに
いろんな力があるから、

それを
それぞれが得意な所で
良いように発揮していけたら
なんか世の中スムーズになる
気がしている。


(スムーズばかりが良いこととは
思ってないけど。)



要は
そのただのおばさんである私に
価値をつけていくことで、

それが他のただの人も
生きやすくなる
ひとつの手段に
なるのではないかと
考えている。



誰だって
ただのおばさんだし、
おじさん。
ただのお姉さんに
お兄さん。


みんなの
【得意】や【好き】や【できる】を
集めたら、

最強のおばさんとおじさんに
なるのでは…。


私はそう思っているので、
そんな場所を創ってみたい。

私は人の話しを聴くのが好きおばさん(イメージ)

看護師は病院にいるもの


看護師の働き方だってそう。


看護師は病院にいるもの。
病棟や外来、OPE室が
よくあるイメージだろうか。



その他にも
地域にいる訪問看護師も
当たり前になったし、

幼稚園や保育園、
学校なんかにもいる。


だけど私はもっともっと
地域の色んなところに
看護師がいたら
便利だなって思う。



病院までたどり着かない
潜在的な
患者さんもたくさんいる。


その人たちに
気づける能力に長けているのが
看護師でもあると思う。


それこそ昔は
家族や近所の人が
それを担っていた部分もある。

しかし今は、特に東京は
家族やご近所付き合いが
ない人も多い。



私も実際ひとり身だし、
なにかあった時は
お隣の人に
声掛けていいのかしら…と
躊躇してしまう。

(私の性格だから声
掛けるだろうけど
それはあくまでもアレ。)



街や人の異変に気付く第三者は
もっといた方がいいと思う。



看護師だけでなく
おまわりさんとか、
商店の人とか、
宅配の人とか。


街を定点で見ていたり、
巡っている人。


その中の一員に
看護師がいても良いと思う。


それを訪問看護師が
担ってくれそうな気もするけれど


冒頭で話したような肩書による
何となくの垣根とか、
実際の忙しさなどが
それを求めるには
困難な気がしている。



もちろん併行して
担ってくださる訪問看護師も
多いと思うが。



なんというのか。

私は病棟時代に感じていたのは
「もっとゆっくり語らいたい。」
ということだった。


看護の他の業務と語りというのは
相性が悪くはないが、
良くもない。

私はもっとゆったりと鎮座して
街にいたり、巡ったりしながら

人々の暮らしを見て、
「生きる」を
共に考えていきたいのだ。


公民館とかカフェとか児童館とか街角とかどこでもいたらいい。



そうしているうちに
途中なにかしらの異変があれば
気付き、適切な場所へ
適切なタイミングで
繋ぐことができたらいい。


その「適切」は
人によって違うし、
その
「その人にとっての適切」自体を
一緒に過ごして
話をすることで
考えていける人になりたい。



そういう存在がいると
街の人の健康意識が上がり、
不適切な受診や、
謎の未受診も減る。


結果、医療費が下がる。


実際、外国ではもうすでに
そういう役割を
担う人たちがいるそうだ。

看護師じゃなくてもいいのだ。


人に目と心を配り、
耳を傾け、
話をつなぐことを
丁寧にしたいと
思っている人なら
なれると思っている。


もし、同じ思いの人がいれば
一緒に創り上げていきたいし、

地域や行政とも協力できたら
もしかしたら
大きく社会を変える
一歩がつくれるかもしれない。



私個人の
知識や学歴は微妙でも
知恵やアイデアはある。


私の力は未知数だけど
学んで
チャレンジしたいおばさんなので

常にその気持ちを持って
進んでみたいのである。


右も左もわからないからこそ、
言えることもあると思う。


周りになんと言われようと
私は野生に飛び出て生きてみたい。

肩書に頼らず、
肩書に縛られず、
でも肩書も活用して
自由にちょうど良く
人や社会をまぜこぜしたい。


それが私にとって
大切な価値観の1つであるし
興味であるし
チャレンジしたいことである。


その気持ちを忘れないように
私は「野生」という言葉をつけて
歩むことにしたのである。

今日のワーク

▶あなたが街の人に
 なにかできるとしたら
 なにができそうですか?


自分の得意は
人の不得意だったりもする。

大したことじゃないと思うことが
人からしたら
尊敬に値することだったりもする。

自分の
【得意】【好き】【できる】
【おっくうじゃない】【よく頼られる】
ことはなんだろう。


それができるって
すごいことと
まずは自覚する所から
はじめよう。


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