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「野生」に込めた思い~父のはなし(2)子育て編~

父の「子を育てることに関しての思い」はNo情報


前回の投稿に書いたように、

父は九州男児で
亭主関白まっしぐら
みたいな生き方だった。

今の時代によく聞くような
「イクメン」みたいな要素は
ゼロだった。


もちろん九州男児でも
亭主関白でも「子煩悩です!」
みたいな方も
昭和真っ盛りの当時にも
いらっしゃったことは
知っている。



だけどうちの父は
全くもって
そういうタイプではなかった。



子供と遊ぶ以外の
家事育児は
全て母が
担当していたように思う。


あ、幼稚園くらいの
年齢になってからのお風呂には
一緒に入っていた記憶があるから
時々お風呂担当は
していたのだと思う。


でもそれはあくまでも
「子育て」としての
ものではなく、父の
「ルーティンの中で
ついでにいけるヤツ枠」
だったような気がする。


その証拠に沐浴レベルの
入浴介助(←言い方)は
してないと思う。



食事や送り迎え、
トイレなどの日常生活に
父の介入はあまり
なかったように思う。




父が「子育て」に関して
どんな思いでいたのかは
正直知らない。


母から
第一子の私が
女の子と分かった時に
残念そうにしていたと
聞いたことがある。
(母よ、これは娘本人に
言わなくて良い情報だぞ。)


それと、
弟が生まれた時にスキップして
喜んだというのは聞いたので、

いわゆる昔ながらの
長男=跡継ぎ=良かった~!
みたいな考え方が
ベースにありそう…という
予想だけはついている。

そんな程度。



でも私が知らないだけで
父が
何かポリシーを持って
子育てをしていたとしたら
こんな書き方をして
非常に申し訳ないなとは思う。


とにかく「自然」重視だった


だけど父は子供と
遊ぶことだけは大好きだった。

でもその
「遊ぶ」のジャンルが
全て野性的。


自然の中を駆け回る系の
娯楽のみで、流行りの
レジャー施設などには
連れて行ってもらえなかった。



どれくらいの感じかというと、

私は東京出身・東京在住なのに
ディズニーランドに
初めて行けたのは小6だった。
(ちなみにその時父は一緒に
行っていない。父は生涯
ディズニーランドに行かずに
今回の人生を終えた。)


憧れの遊園地




それと泳ぎは基本、海。

ごく稀に
プールに連れて行ってくれた時は

「いいか、ハンナ。
プールは人が作ったものだからな。」と

しつこく何回も聞かされていた
記憶がめちゃくちゃある。



あとは、家族で年に3回くらい
キャンプに行くのが恒例で
楽しみだった。


だけど、そんなに
キャンプに行っていたにも関わらず、
私は
キャンプ場に行ったことがない。

(大人になって
友人と行った時に初めて
キャンプ場なるものを体験して
ビビった。)




とにかく遊びに行くのは
基本、海か山。

それか博物館や美術館や
資料館などの施設。
良くて公園。



それでもしょっちゅう
そのような所に連れ出しては
遊んでくれて、
とにかく私と弟は
楽しく過ごした
沢山の思い出がある。


口ぐせは「ハンナ、社会勉強行くぞ!」


父は必ず、
遊びに行くときに
「遊びに行くぞ!」ではなく、

「ハンナ、社会勉強行くぞ!」
と言って車に向かった。



いつも
遊びに行くと言い出すのは急。
計画とか予定とか
予約という概念が
どうやら父にはなかったようだ。



自営業で、外仕事というのもあり
雨が降ったら休んだり、
自分である程度の調整ができる
自由度の高い
職業だったというのも大きい。


サラリーマンだったら
確実にクビになっているレベルで
自由。


なので急に
「今日これからキャンプに行くぞ」
などと言い出す。

言われて一番大変なのは母。

今の私がもし母の立場だったら
間違いなく
ガチギレするであろう。


ただ、
【父は亭主関白、母は言いなり】の
図式が完成している
夫婦だったので

母はぶつぶつ言いながらも、
短気な父がキレないように
急いで家族4人分の
レジャーの支度をしていた。

その光景を
なぜだかすごく覚えている。


母の思いも知らずに
私と弟は
どこかに連れて行ってもらえる!と
大はしゃぎ。

どこかはわからない
ミステリーツアースタイルが
常だったので、行先は特に
気にしていなかった。


ずっとそれで育ったもんだから
ディズニーランドの存在などは
たしか小学校高学年くらいまで
知らなかった。

今思うと、
知っていたら
行きたくなったと思うので
知らなくて
良かったのかもしれない。




無邪気に
「わーい!今日は海かな?
山かな?川かな?」と
ワクワクしながら
父の運転するバンに乗り込むのが
恒例だった。



社会勉強というだけあって
父とのレジャーで
私はいろいろな経験と
学びをしたように思う。


東京に住んでいるのに
ディズニーランドに
行ったことがなかったけれど、
私は
東京湾の牡蠣を
食べたことがある。



東京湾に牡蠣っているの?
あと、食べていいの?←



仮にいたとしても、
食べて良いとしても、
散歩中に
父が捕獲して食べる
シチュエーションは
たぶんあんまりない。


いまだに
記憶違いなのでは…と
思ったりもするが、
私は父と出かけた散歩で
東京湾の浜っぺりを
時々歩いた。


その時に
岩場にへばりついていた貝を
「ガッガッ」と父が岩で叩き、

中から出てきた
貝をそのまま
「天然の塩味だぞ!うまいぞ。」と
言われて
食べた記憶がある。



うまいぞ、じゃないよ。



だがしかし
あれは確実に牡蠣だったし
確実においしくはあった。




あとは
近場の山だか林に行った時に
そこに実をつけていた
野性の
「あけび」を食べたことは
何回もある。


あけびって、そんなナチュラルに
頻繁に食べるメジャー級の
フルーツではないと思うが、

当時の私は
あけびがとてもお気に入りで
時々、そうやって
父が取ってくれた
あけびを食べるのが
好きだった。



…あれも、大丈夫かな。


人様の敷地の山のものとかじゃ
なかったかしら。
なんとなく心配である。



自然シリーズでいくと
飼うペットたちも
もちろん自然。

猫や犬を
ペットショップで
買ってもらえることなんて
当然なかった。


ただし父と弟と
ザリガニ釣りや
めだか取りにはよく行ったし、

私は苦手で
やせ我慢をしていたけど
カブトムシやクワガタも
弟にとっては
定番の愛昆虫だった。



中でも衝撃だったのが
野ウサギ。

ある日突然、父が山から
野ウサギを連れ帰ってきた。


父の仕事の現場が
たまたま山の近くだったようで
「休憩中にそこにいたから
捕まえた」と言っていた。


休憩中にそこにいる?普通。

なんならどっちも信用ならない。
(父の表現も、父に捕まる
スピード感の野ウサギも。)



想定外に
ウサギを飼えるという
大事件が起きたので、
とてもよく覚えている。


だけど数日
エサをあげたりして
かわいがっていたのに、
ある日突然朝起きたら
ウサギがいなくなっていた。



悲しみに暮れながら
母に聞くと、父が
「やっぱり山に帰す」と
言って、元いた山に
戻しにいったとのことだった。

当時は悲しくて
「なんで…」と父を恨んだが、
今考えると
野性に帰してあげる父で
良かったと思う。


その前に捕まえてこなければ
もっと良かったとは思うが。



そういう、
あらゆることを通して
たしかに父は
私に東京でできる限りの
野生の「社会勉強」を
沢山させてくれた。


キャンプは創るもの

冒頭にも書いたように、
私はキャンプ経験は
結構な数あるけれど、
キャンプ場には
行ったことがなかった。


それと世間には
キャンピングカーなるものが
あるという噂は聞いていたが
それを所有したり
乗ったりしたことはなかった。


だけども、
車で寝泊まりしながら
日本全国を回ったことはあった。



どういう事かというと、
父はキャンプに行くとなると
必ず、仕事で毎日使っている
ハイエースから
工事に使う仕事道具を
全て出し、

中も外も丸洗いしたのちに、

そのハイエースの後部座席を
キャンピングカーのように
変身させるのである。


座席を全て
どっかにやって、
(どうやって
どっかにやってたかは
今考えてもわからない)

大人でもまっすぐ横に
なれるくらいの面積に
レジャーシートを一面に敷く。
その上に
マットを敷き、布団を敷いた。



更に
普段使いのフライパンや鍋、
調理器具などを母に準備させ、

飯盒は
かろうじてキャンプ用だったが
その他の物品は
びっくりするほど
いつものやつを車に積み込んで
キャンプに出発するのである。

何度も言うが、
私が母だったらキレると思う。


キャンプの準備は
本当に母が大変そうで、
いざ出発!となる頃には

母は疲れ果てて
後部座席で寝ているというのが
いつものパターンだった。

母よ、
ろくに手伝わずにすまぬ。




一方で私はそのスタイルの
キャンプが好きだった。

というか、その道中の
ドライブが好きだった。



父の運転する車の助手席が
私の特等席で
いつも外の景色をみながら父と
ああだこうだ言うのが好きだった。


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ここからの景色が大好きだった


道中、
目に入る様々なものについて
父がいろいろ教えてくれたし、

看板の文字を読み上げたり
街路樹の本数を数えるのも
好きだった。


ガードレールに乗って
ジャンプをして
飛び越えていくテイの
マリオ的謎ゲームも
頭の中で繰り広げたし、

高速道路の
サービスエリアが好き過ぎて、

いかに父に
寄ってもらうか、そして
そこで何かしらのおやつを
買ってもらおうとするかの
攻防なども
父と弟と楽しんだ。

ただひとつ、
私が嫌だったことがある。


それは父がハイエースで
山の、道なき道をガンガン進み

人っ子ひとりいない山中で
キャンプに適した場所を探す
その過程が
なんだかとても怖かった。



人がいなくて怖いとかではなく、
「ここ、入っていいの?」
という恐怖。


子供ながらに何となく
ここは普通の人は入っては
いけない場所なのではないか…と
感じ取っていたのである。


もしかして見つかったら
警察に
捕まっちゃうんじゃないか。

そんな恐怖感があって、私は
できれば普通の人たちがいるエリアで
キャンプがしたいなと
思っていた。



だけど、父は
そんな娘の思いも知らず
どんどん進む。

父はとても運転がうまかった。

うまいゆえに
細い(というか無い)道も
きっちり進めたし、

不思議なことに
そういう道の先にはなぜだか

キャンプに持ってこいの
キレイな水の流れる川と、
テントを張りやすい
平らな場所が
開けたりするのだ。


これはまだ整ってる方だね、とすら思う。


後から知ったけど、
キャンプ場って
当たり前だけど
他にもキャンプをしている
人たちがいる。


だけど私の小さい頃の
キャンプの思い出で
うちの家族以外が
いたことがない。

山と川と井上家のみ。


今思うと、ほんとに引くけど
ほんとに貴重だとも思う。



そんな場所で父は
テントを張り、
焚火用の木を拾い、
石でかまどを作り、
川の隅を少し囲って
小さな
天然の冷蔵庫を作った。


トイレもお風呂もないけれど
何となくトイレもお風呂も
あったように思う。
(なに言ってるの)

スイカを
川で冷やして食べたり、
イワナ釣りをして
焼いて食べたり
川で泳いだりして過ごすのは
とても楽しかった。


ただ、夜になると
ものすごく不安になる。


びっくりするほど暗い。
当たり前だ。

街灯的なものはなく、
懐中電灯と焚き火の明るさのみ。

だけどそれゆえ、
満月が近いと
明るいことや
たくさんの星があって
それは時々、
流れたりすることを
知った。


父はいわゆるみんなが集まる
キャンプ場のことも


「いいか、ハンナ。
キャンプ場のキャンプは本物の
キャンプじゃないんだからな。
あれは人が作ったものだ。」と

何回も説いてきたことを覚えている。



父はなんだろうか…

人に何かされたのか?

人工物に
異様に嫌悪を示す父の背景を、
大人になった今なら知りたい。

だけど
小さかったハンナは不安すぎて


「神様…どうかお父さんが
人が作ったキャンプも
好きになりますように。」と


祈りながら寝たものだった。




ちなみに、井上家も
ごくたまに
テントや車ではなく
旅館やホテルなどに
泊まれることがあった。



そんな時も、
それは父の気分次第なので
事前に予約して
泊まったことは一度もなかった。



たまたま通り掛かった温泉地が
父好みだった時などに、
母に
「今日空いてるとこあるか、
聞いてこい」と
観光案内所に向かわせ、

当日空いていれば
急遽泊まるという
徹底した突撃スタイルだった。


今、よくテレビなどで見かける
アポイント無しの旅のスタイルを
父は好んで貫いていた。



同級生が夏休み前などに
「どこどこのホテルを
お父さんが予約してくれて
遊びに行くの~。
プールもあるんだよ~。」
などという話題で

ホテルって…
事前に予約できるんだ…と
知った次第である。辛い。


ホテルにプール…
人工に次ぐ人工だな…
そんなことをふと、
思ったりする少女ハンナであった。
(悪意はない。)

車の助手席で鍛えられた話


父の車の助手席で
私は色々な
経験値を積んだおかげなのか、
完全に
地図の読める女になっていたし
自分で運転するのも大好きで、
長距離もいけるタチに
仕上がった。


暗い山道を進みながら
月や星、そして
忍者なんかの話を父としたし、

明け方のサービスエリアで
暗闇から徐々に昇る
朝日を見ながら
何だかワクワクもした。



遠い知らない地方の歴史や
文化、土地の話や
地理の話を聞いたりもした。


小さい頃には全く興味のない
変な銅像と、
その前の説明書きを
読まされたりもした。



そのおかげで私は
だいたいどうにかなるし、
だいたいどこでも眠れる。

日本各地の地域の色濃い
発酵食品やお酒が好きなのも

行った土地には
親しみを感じて
ずっと好きになっちゃうのも

父とのキャンプや
ドライブ経験の賜物だと思う。



道に迷ったときとか、
お店選びなんかのときに
私は今も
風を読む癖があるが、
それも
父のこの
教育の賜物だと思っている。
(なに言ってるの)


海でも訓練

父の野生での訓練は
山だけでない。

父は海も大好きだったので
夏のワンシーズンに
海水浴に必ず数回行っていた。



その時に
よく私を背中に乗せて
父は沖の方まで
泳いでいった。

私はこんなに守られていなかったし浮き輪なんかも無し。



遊泳禁止ブイまで行くのだが、
正直
その距離感のところに
小さな子を乗せた
他の父親らしき人は
もちろんいなかった。

それどころかここもまた、
人っ子ひとりいなかった。


恐怖。



海がこわいとか
波がこわいとかでなく


なんだろう…


広い太平洋という大海原に
父と2人
ポツンとする恐怖感。

すごく小さい存在に思えたし、
あと不思議と
すごく静かだった。



浜辺で待つ母と弟は
そんな私たちを
とても心配そうに眺めていた。



特に弟は
海こわい系男子だったので、
不安MAXな顔をしていた。


母は、
無謀な行為を無謀と思わず
平常運転モードで
娘を沖に連れていく父を
どんな思いで
見ていたのだろうか。

今度、聞いてみよう。



本当は父は
弟を連れて
海原に出たかったようだが、
私しか
乗り気で付いてきてくれる人が
いなかったので
いつも私と沖に出た。



実は私も
本当は怖かったので
いやだったもだけれど、

父があまりに
張りきっていて
楽しそうだったので
断れずに参加するシステムと
なっていた。



これは後に、
運動オンチなのに
唯一、水泳だけは得意で
好きになるということに
繋がったし、

日差しや砂に全く抵抗感がなく
多少のザラザラとか
濡れるとかも気にならず、

いまだに
すぐ裸足になって
ズンズン海に入りがちな
女に私は育ち上がった。


良いのか悪いのかは
わからない。

だけど、
ちょっとだけ
何かあっても死ななそうな
気はしている。


結果、オーライ。


この
「野生の英才教育」によって
東京出身のわりに
自然いっぱいに
たくましく育った私。


社会勉強で私は
その後の人生の
あらゆる場面で
この経験が謎に役立っている。



指をペロッと舐めて
風を読めば
だいたいの方向は掴めるし、

何となくの勘が
めちゃくちゃ働く。


お店などは面構えで
良し悪しがわかるし、

空気感で
その場がアウトなのか
セーフなのかも
だいたいわかる。



地図がバチクソ読めるし、
父の血を引いてしまったゆえに
宮古島では
道なき道を切り開き、
誰もいない
リアルプライベートビーチを
見つけたりもしている。


ここ。ビーチに続く道自体が見つけにくい。


運転が得意だし、
雪の日にひとりでチェーンを巻いて
友人に引かれたこともある。
(父の教えでうちには
スタッドレスの文化がない)



だいたいのことが
なんとかなる精神。


特に友人たちとの
女子旅なんかで
重宝してもらいやすい。
感謝である。


その甲斐あってか、
今もひとりで元気に暮らしている。
(泣いてなんか、ない。)

うおー!今日もごはんがおいしい。


今日のワーク


お気づきであろうか。
もう、あなた
6200文字読まされてる。


だから今日のワークは
軽めにしよう。


▶あなたの小さい頃の一番の
思い出は何ですか?

▶その理由は何ですか?

▶その理由は今のあなたの
どんな役に立っていますか?

▶思い出に登場する人やものに
声を掛けるとしたら、
何て声を掛けますか?



あたまの中で考えるだけでも
良いですし、もし可能なら
本当にその声掛けをしてみても
何か発見があるかもしれません。
(全然ワーク軽くない)



私は父がもし生きていたら、
一緒にあけびを食べながら

野ウサギと東京湾の岩ガキの
真相について聞きたい。




今宵も読んでくれて感謝。
ではまた。



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