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4歳の頃、つくっては壊した 山

自宅から緩やかに続く下り坂の執着地点にあった、あの幼稚園は今はもうなくなってしまった。当時は母の自転車の後ろに乗せられて走ったあの果てしない坂道も、今や徒歩5分ほどで歩けてしまう距離だ。私は大人になった。

幼稚園で過ごした記憶も、断片的にしか覚えていない。中でも鮮明に覚えていることと言えば、入園式で永遠に泣き続けたことと、卒園式の国歌斉唱を口パクしたことくらいかもしれない。それとあと、もう一つ。ひとり砂場で山をつくるのが好きだった事だ。


園の砂場の片隅で、ひたすら山をつくった。つくっては、てっぺんから水を流して川をつくり、そして崩した。崩す時は、できるだけ水が多くの砂に含まれるよう、満遍なく砂を混ぜながらやった。そうして水を含み重たくなった砂をつかって、また何度でも山を作り直した。作り直す度に少しずつ土壌は安定していき、山は大きくなっていった。それを毎日毎日、一から何度でもつくった。幼稚園が休みの時は、近所の公園でもつくった。当時は子どもを公園で遊ばせることに反対する大人も、まだあまり居なかった。私は常に山をつくっては壊す子どもだった。


今同じ事ができるかと聞かれたら、あんなに毎日何時間も同じ事ができる自信はない。だがきっと、当時の私にとっては、あれが生業だった。誰に何を言われようが、ただひたすらに黙々と続けることができるもの。例えそれが、砂遊びであってもだ。「同じことばっかり繰り返してつまらない」と、確か誰かに言われた。それでもいいから、毎日山をつくり続けた。誰に何を言われようと、自分がつくりたいならつくればいい。やりたくない人が無理にやる必要もない。だけど本当は、誰かと一緒に山をつくってみたかったのかもしれない。


さて。
大人になり、山以外にも沢山のことをつくり、そして壊してきた。友人からいじめを受けたこともあれば、恋人と別れたこともあれば、家族とも喧嘩した。いつだって私は、たくさん壊しては「ああ、また一からか」とつくり直す。砂の山でもなんでも、つくるのは大変で、壊すのは一瞬だ。人を傷つけてしまった分だけ、自分で自分が嫌にもなる。だけど、壊してしまったものも、つくり直すより他にない。全く同じものはできずとも、また別の形で生まれ変われるかもしれない。
そしてつくり直す度に、「何してるの?」とひょっこり現れる人がいる。そうした人との一瞬の交錯を、これからも愛していきたいと思う。

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