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【批判的思考の身につけ方】自分の当たり前を壊されよう

学生さんからの質問への回答シリーズ。最後が重要なのでできたら最後まで読んでほしい。

「批判的考察について、その能力を養うために読書が挙げられると思いますが、どのように養いましたか。」

講演の中で国際協力分野で働くには批判的思考(クリティカルシンキング)を身につける必要があると言ったので、それに対する質問であるが、個人的意見では読書は必要だが十分ではないと思う。読書は映像や音声よりも自分のペースで考えながら読み進めていくので時間がかかる分、記憶に残りやすいし、考える力もつくと言われている。ただ読む本を選ばないと、好きな作家や思想家の本ばかり読んでいては批判的思考は身につかない。読む本を選ぶために批判的思考が必要だと思う。

批判的思考を身につけるための大学の授業や研修なども増えているという。手っ取り早く身につけられる方法としてはありかもしれない。ディベート大会に参加したり、国連に興味があるなら模擬国連も役に立つと思う。ただ、そういう機会に恵まれなかった僕が批判的思考をどのように身につけたか(今でもまだまだだけど)を回答しておく。

僕は田舎育ちで、子供のころは割と裕福だったと思う。その後バブルがはじけて全然そうでもなくなったのだが、大学までは親が出してくれていた。疑うことはあまり知らない子供だったと思う。推理小説は好きだったので、全く疑わないかと言ったらそうでもないかもしれないけど。

そんな環境だったので、あまり貧困とはどういうことなのかわかっていなかったが、大学で教育学や心理学を学んでいて「メリトクラシー(能力主義)」という言葉に引っかかった。

そして学校というのは元々あった格差をメリトクラシーの名のもとに正当化するブラックボックスであるという理論を知り、初めて学校教育の負の部分について知った。さらには学校教育が民族抑圧のために利用されている場合もあるということを学んだ。

同時期にホームレスの人たちへの炊き出しに参加して、驚愕の事実を知ることになる。今と違い当時のホームレスの人たちはおじさんばかりで昼から駅などでゴロゴロしていて、臭い、汚いというイメージしかなかった。しかし、彼らの多くは元々炭鉱労働者で鉱山の閉鎖によって職を失ったり、日雇い建設業がバブル崩壊により労働者を切っていったこと、更には半数くらいの人が知的障がいも含めた何らかの障がいを持っていること、住所が無いので生活保護ももらえないこと、昼間寝ている人たちは朝早くに日雇いの集合場所に行ってさんざん待った後、選ばれなくて戻って来ていることなどを知った。話をしたら変人も多かったけど危ない人たちでは全くなかった。

こういう機会があり、前提条件を疑うことを初めて知ったような気がする。自分が当たり前だと思っていたことを壊される体験というのは批判的思考の第一歩だと思う。そしてメリトクラシーについて身をもって考えさせられた。また、いかに自分が偏見を持っていたか、そしてホームレスというカテゴリーを一つとして一般化していたかも知る。一人ひとり全く違う理由でホームレスになってしまい、それぞれ全然違う環境にあるというのに。

それからもう一つ、僕が高校生の時に、ある中学校でのいじめ自殺問題が社会問題化した。その時は自分も少しいじめられた経験もあって、かわいそうだなくらいに思っていたのだが、大学に入って授業でいじめ問題を扱ったときに、いじめの定義について考える授業があり、いじめという言葉の範囲が拡張しすぎて犯罪であっても学内で起こればいじめで処理されている、ということに気づく。今の時代、おそらく中学生や高校生でも考え付くかもしれないが、当時自分にとっては初めて言葉の定義の大切さを思い知った。

大学院では論文を書くに当たり、研究テーマのキーワードの定義は必ず知っていなければいけないので、定義を考える癖がついた。定義を考える癖がつくと、世の中の多くの議論が定義がずれたままされていることに気づく。民主主義、国家、戦争、ジェンダー、フェミニズム、テロリズム、人権、皆それぞれ勝手な解釈で議論していないだろうか?

オフサイドのルールを知らずにサッカーを見て審判を批判するのと同じで、定義を知らずに議論すると議論がかみ合わない。

国際協力の仕事を始めてから、プロジェクト立案などでは必ずプロブレムツリーやセオリーオブチェンジ(どうやったら望まれる変化が起きるかを包括的に説明するツール)、ロジカルフレームワーク(目標、活動、投入などを論理的に説明するツール)を作らなければいけないので、嫌でもそういう考えが身についていった。さらに色んな人種やタイプ(政府高官からビジネスマン、アフリカの農家の人まで)に会っていると、自分の前提が全く通じないので、その人たちと話すときには前提を捨て、定義を明確にし、偏見をなくしてフラットな状態で話すことを心掛けるようになった。

そんな感じで、読書や大学の授業、そして色んなタイプの人に会うことによって僕の中では一定の批判的思考が身にについたように思う。読書だけで批判的思考を持てる人もいるだろうけど、そうでない人の方が多いと思うので、インプット(読書や授業)と体験と訓練をミックスすることで培われていくのだろうと思う。体験はできるだけショックが大きい方がインパクトが大きいので自分と境遇や属性が違う人、意見が違う人と会ったりすることが良いと思う。実は大学ではこれが一番難しいかもしれない。

ちなみに、批判的思考はとても重要で、身につけていれば役に立つことこの上ないと思うが、恋愛で使うのはお勧めしない。付き合う前に浮気の定義について話し合いたい人がいるだろうか?自分が原因で泣いている恋人に問題を分析してあげて泣き止むだろうか?まあそういう人もごくまれにいるだろうけど、

恋愛も含めて結局のところ憎しみ、怒り、プライド、といった感情的部分が世の中を支配していることが多いので、批判的思考は必要だけど、それを相手に求めすぎてもうまくいかないことも多いように思う。批判的思考も大事だけど、それだけでは物事は解決できない。相手の感情を揺さぶる何かも必要だろう。

ここまで読んで、なるほどー、と100%納得したあなた、まだ批判的思考ができてないんじゃない?

もし読んでいて、これは違うんじゃない?って思ったところがあれば、それは批判的思考ができているってことだと思う。僕の意見は正しくないかもしれないし、あなたには合わないかもしれないけど、そう思ったらそれでよいと思う。読んで考えた上で同意というならうれしいけれど。


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