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「わたしの生き残り」は「私たちの生き残り」ができなければ失敗する。

「意志表明」か「べき論」か

こういうときだからこそ学び、成長し、進化しなければならない、みたいな鼻息荒めの投稿をよく見かけるようになりました。

成長するぞ、という個人の「意志表明」なら良いんだけど、誰もがそうすべきだ、という「べき論」になってしまうのは避けたい。「べき論」には必ず見放される人がいるから。

たしかにafterコロナやwithコロナの時代に適応するには相応の成長が必要かもしれません。それはきっと当たってる。

でも、誰もが成長しなければ生き残れない、というのは相互支援を期待しない個人主義的な思想。それはこの状況で成長しない・成長できない人たちを置き去りにしちゃいます。


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「わたしの生き残り」は失敗する

私たちは、そんな個人主義とは逆の集団主義的発想を選ぶこともできるので、この時期に成長する人はそうでない人たちの適応をどうしたら支援しできるのか?という問いを自分や周りの人に投げかけることもできる。

そうして「わたしの生き残り」ではなく「私たちの生き残り」を考えていくことが、必要なんじゃないかなと思います。

もしコロナ収束まで「わたしの生き残り」に成功しても「私たちの生き残り」に失敗して馴染みの飲食店が無くなっていたら、それはわたしの生活の一部を失うのに等しい。身近な友人が希望を失っていたら、それはわたしの人生の一部を失うのに等しい。

だとしたらそれは結局、成功したと思っていた「わたしの生き残り」にも失敗したんだと感じるかもしれない。

だからいまは、「私たちの生き残り」のためのお金の使い方や時間の使い方を考えています。それが結局「わたしの生き残り」のためでもあるからです。

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