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様々な教育新聞や教育書に目を通すと、個別最適化、一人一台端末、という言葉が踊っています。しかし、そもそも個別最適化、という考え方は昔からありました。例えば、特別支援教育は、一人一人の個性や障がいに合わせた指導を行います。長い歴史の中で個別最適化の学習を模索し続けてきたのではないでしょうか。

一人一台端末も手段に過ぎないのだと思います。スタートラインは、
「一人一人に見合った学習方法を実現するための手段」
という考え方であるべきだと思うので、「使う」ということが目的ではないのだと思います。もちろん、慣れるために今日は…みたいな学習があってもよいかと思いますが、使うために使うのではないのだと思います。

この前、一人一台端末は手段、ということを改めて実感することがありました。中学校の数学の授業。「データの活用」で箱ひげ図を生かして班を代表する3秒ピッタリを出せる人を決めるために話しあっている場面。一度目は、一台のタブレットで話し合っていました。二度目は、一人一人、それぞれのタブレットを見ながら話し合っていました。さて、どちらの方が気づきが多かったでしょうか?

もうお分かりかと思いますが、正解は、班で一台のタブレットで話し合っている方が、豊かな気付きが生まれた、ということだそうです。後から知ったのですが、みんなで同じものを見ることを、「共同注視」というそうです。こちらの方が、プレゼンテーションや話し合いで、効果が上がることについて研究で証明されているようです。絵本の読み聞かせは親子による共同注視で、授業中の黒板はクラスメイトによる共同注視ですね。教育効果を考えて、一人で一台の端末をもっていてもあえて!という場面が必要だと思うのです。

さて、昭和の話です。明石家さんまさんの映画で、「とられてたまるか」という作品がありました。さんまさんが泥棒で、武田鉄矢さんがお父さん。さんまさんが、一家の大切なものを盗んでいくのですが、最後に狙ったのはテレビなんです。一家で一台、家族団らんの時間を作ってきたテレビ。共同注視のなせる、至福の時間だったわけです。今ではテレビの他に、家族それぞれスマホ、タブレットなど、別々のメディアを見て過ごす家庭がどんどん増えていることに、寂しさを感じるのは私だけでしょうか?

                         みうらけんたろう

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