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「デ・キリコ」展@東京都美術館


デ・キリコの「形而上絵画」というキーワードを聞くと、半ば条件反射的に埴谷雄高の「形而上文学」を連想する。埴谷雄高は「死霊」において「虚体」というキーワードを提示し、実体のない、存在だけの人間について書いた。
デ・キリコもまた絵画において実体のない本質的ななにかを探し求めたのだろう。

画面の色の話をすると、デ・キリコは郷愁を描いた。それは空の色合いによくあらわれていた。テレンス・マリックの映画でよく使われている「マジック・アワー」のような美しい色彩だ。

モチーフも特徴的だ。
デ・キリコはイタリア人かと思っていたのだが、もともとはギリシアの生まれだそうだ。だからギリシア神殿やギリシア神話をモチーフにした要素がいつも画面に反映されている。
村上隆が作中に日本の古典的な絵画を取り入れるのと同じで、自らの出自を明確にしているのだ。

また、絵画の中に、いろいろな要素を切り貼りしている。新聞の切り抜きのようにぺたぺた貼っているわけではないが、画面の中で溶け込まないようになっている。異物感を残して溶け込ませている、というのだろうか。
こういう描き方を観ていると、ヴァージル・アブロー(ルイ・ヴィトンのメンズウェアのクリエイティヴ・ディレクターだった)が著書「ダイアローグ」の中で、「私たちの世代はサンプリング文化なんです」と語っていたことを思い出した。アブローは1980年生まれだ。たしかにサンプリング文化を生きたかもしれない。しかし、デ・キリコの作品もまたサンプリング文化の産物ではないだろうか。

モチーフの借用や過去作品の引用だけではない。
同一絵画の中で、遠近法のズレや、モチーフの位置関係の違和感などを観ていると、複数の世界が混在しているのではないかと思えてくる。
こういった点でも、一種のサンプリングだと思う。

今回の展覧会の企画上の狙いなのかはわからないが、デ・キリコの絵はどれも似たような世界だ。フェルメールがいつも同じ部屋を描いていたように。
デ・キリコはヨーロッパのいろいろなところに住んだようだが画面の構成にはあまり影響を受けなかったのだろうか。

そして、最後に「新形而上絵画」に到達する。
これが感動的だった。
今まで描いてきた作品群からの引用であったり、描きなおしであったりするのだが、とても明るい印象を受けた。みずからの人生を肯定するかのように。まさに集大成といっていいだろう。
まるでジョブスが「過去の経験が、そのときは点と点だったものが、やがてつながって線になる」と語っていたことを見るようだった。

鑑賞券が2,200円で、行くのをやめようかと思ったがデ・キリコは観ておかないと、と思いなおした。ただし、同じように考えて、行かなかった人も多いようで、連休だというのに空いていた。ゆっくり観られてよかったと思う反面、日本の企画展はこれから大丈夫だろうかとも思う。
これからは企画展の成功のためには、
・有名なアーティストの作品
・広告の上手な代理店がつく
という少なくとも二つの要素が必要になると思う。要するに巨額の予算を動かせる案件は観客動員数を稼げるが、そうでないとガラガラ、という二極化が進むのだろう。こちらも観にいく予算がないので、高額な鑑賞券を一枚買ったら、他の展覧会をひとつ観るのをやめる、という取捨選択をせざるを得ない。いろいろなところで格差が広がっていくのが想定される。どうにかならないか。と、この場に書いてもどうにもならないのだが。いろいろともやもやする状況ではある。

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