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横浜狂言堂230409

座席が少し離れたところだったので、逆にあたらしい発見があった。
シテが遠いので、アドの視点がちかい。
狂言はいくつもの視点が同時進行するというか、登場人物がそれぞれ主役になりうる。
人生もそうだ。自分や身近な人だけでなく、さまざまな人がそれぞれの人生をいきている。

「素袍落(すおうおとし)」
シテの太郎冠者は、主人のお使いで、親戚の叔父さんの家にいく。伊勢参宮のお誘いなのだが、急な話だったので叔父さんは断る。ただ、太郎冠者に酒を振る舞う。太郎冠者は、べろべろになる。新しい着物ももらって家に帰り、主人にバレる、というもの。
普段のストレスを酒でまぎらわす、というのもあるだろうし、酔った勢いで主人にうっぷんをはらす、というのもあるだろう。
庶民は酒を飲んでストレスを発散するのも、よくあることだったのかもしれない。

「猿座頭(さるざとう)」
勾当 (こうとう) が、猿引に妻を取られる話し。
勾当が、妻と花見にいく。最初は仲睦まじいが、猿引がきて、妻にちょっかいを出す。
最初はこばむ妻だが、勾当の小言に腹を据えかねたのか、猿引と一緒に駆け落ちしてしまう。
なんとも切ない話だが、自分を文字通り拘束する夫から逃げ出したい、というのは、今にも通ずるものだろう。

狂言が面白いのは、今の時代にも通じる感覚があるところだ。庶民は仕事でストレスがたまり、酒を飲んだりして、たまにハメを外してやりすごしてきたのかもしれない。

生きるというのは楽しいことばかりではない。それでも生きていかねばならないし、自分なりの楽しみを見つけるのがいいのだろう。

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