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春風や行く歳すぎて世の末も

『燃えよ剣』司馬遼太郎、これを昨年初めて読み始めた。

文庫本の下巻は鳥羽伏見の戦いのあと、大坂へ下った辺りで、映画を観た。

映画ではその後の話がさらりと流されたように思う。一度きりしか観ていないから、なんとも言えないが、実にあっさりと描かれていた。

年末年始は、私個人的なことに集中していて本を読む気になれないでいた。一度手にとったものの、ほんの一、二頁をくっただけで、テーブルの片隅にレシートなどと一緒になって埋もれていた。

春である。

場所を移しても相変わらず二冊の文庫本の、下に置かれたそれは雪の下に埋もれた道のようにひっそりとしていた。

今なら、と手に取って読んでみる。

字面を目で追うだけでは何か物足りず、声に出して読んでみる。

いざ口にすると、読みがわからない漢字の言葉がある。目にしたことはあるし、多分、一度は耳にしたかもしれない。

揮毫。

きもう、か、きごう。そうあたりをつけた。「きごう」であった。

もっとも、余談だが。明治九年、歳三の兄糟谷良循、甥土方隼人、近藤の養子勇五郎らが、高幡不動境内(日野市)にこの両人の碑をつくろうとし、撰文を大槻磐渓に依頼し、書を軍井頭松元順にたのんだ。日ならず、文章と書はできた。ただ碑の篆額の文字を徳川慶喜にたのもうとし、旧幕府の典医頭だった松本順が伺侯し、家令小栗尚三を通じて意向をうかがったところ、慶喜は往時を回想するように顔をあげ、「…………」と両人の名をつぶやいて、書くとも書かぬともいわない。家令小栗がかさねていうと、「近藤、土方か。ーー」とふたたびつぶやき、せきあげるようにして落涙した。「御書面(碑文の草稿)をそのまま御覧に入れ候ところ、くりかえし御覧になられ、ただ御無言にて御落涙を催され候あひだ、御揮毫相成り候や否や、伺ひあげ候ところ、なんとも御申し聞かせこれなく、なほまたその後も伺ひ候ところ、同様なんとも御申し聞かせこれなく」と、家令小栗尚三が、松本順に送った手紙にある。(中略)慶喜の落涙を察するに、譜代の幕臣の出でもないこの二人が最後まで自分のために働いてくれたことに、人間としての哀憐の思いがわき、思いに耐えかねたのであろう。同時に、かれらを恭順外交の必要上、甲州へ追いやったことも思いあわされたのかもしれない。

慶喜は揮毫をことわった。

なお篆額の揮毫はやむなく旧京都守護職会津藩主松平容保がひきうけ、碑は明治二十一年七月完成、不動堂境内老松の下に、南面して立っている。


何故私はこのような大切な言葉を知らなかったのだろう。…いや、それはもうよいだろう。今現在こうして歴史に目を向け、物語を紐解く喜びに与かっていることだけでいいのだ。

甲陽鎮撫隊解散のあと、医学所で療養中の近藤勇の元に来た永倉、原田らが再挙の相談を持ちかけた。深川森下の大久保主膳正の屋敷にて話し合いがなされた。

そのあと、近藤と土方が二人で連れだって歩き、話をするくだりがとてもいい。本当のことはわからない。けれどもこういう会話と心の動きがあったとしたら、と思う。


ふと目をあげると、桃の花が咲いている。

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春。

今読んでいるくだりは三月のこと。

「歳、俳句ができねえか」と、近藤は急に話題をかえた。歳三はしばらくだまっていたが、やがてポンと石を蹴った。「京のころは、わりあい出来たがね。公用に出てゆく道や春の月」

このあとの会話もなんともいい。声に出してみると、心に生き生きとその心情が漂う気がする。

もっとも、私の声で男の人の言葉は生きない。けれども…その情景は憧れも伴って、心にありありと浮かんでくる。

このあと物語は流山へと向かう。

この話に出てくる土地の名を聞いては、私個人の以前の暮らしを思い出す。

高幡不動。高尾に暮らしていたころ、通りかかった。多摩動物公園の最寄り駅だったか。ひとりで行ったのだったか。青色吐息の頃だった。

その他諸々の土地。あげればきりが無い。

歴史の流れに連なって、今があるのだとしみじみ思う昨今。

これから私が胸に描く物語はどんなものになるだろうか。


引用元: 『燃えよ剣』下、司馬遼太郎 新潮文庫 昭和四十七年六月発行 令和元年十二月第百十六刷

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