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『短歌往来』2022年1月号

①田中教子「短歌と俳句」針鼠とく奔りけり人の世の鬼才といふはさびしかりけり 前登志夫 〈「針鼠」は誰かわからないが「鬼才」と呼ばれた人のイメージだろう。彼は針鼠のように恐ろしく近寄りがたい存在だったが、「とく」は早くの意味で、早世したものと思われる。〉この歌いいなあ。田中の読みにも惹かれる。「とく奔りけり」が早世したことだと読むとこの歌が深くなってくる。〈二度の「けり」は鬼才に対する重い哀切の響きとなっている。〉「けり」の二度使用を、斎藤茂吉の「たたかひは上海に起こり居たりけり鳳仙花赤く散りゐたりけり」から考察している。

いっせいに飛び立つ鳥の名は呼ばず飛び去らせたり昨日の空へ 佐伯裕子 鳥が飛び去って行くのが「昨日」だ、という不思議さ。鳥が異界との交感の使者だという捉え方だろう。鳥の名は知っているが呼ばない。主体も鳥と同じ異界を見たことがあるかのようだ。

与太郎は与太郎のまま愛されて喜びのうちに飴を売りにき 大口玲子 子供をその子そのまま愛するのは意外に難しいものだ。親は自分の子供時代と比べて、せめてそれと同じぐらいは、出来ればそれを上回ってほしいと思う。親と子が別人格だと自覚するのは口で言うほど簡単ではない。

④加古陽「新聞歌壇の過去・現在・未来」〈今と同じように選歌欄を設けて掲載しはじめたのは一九〇〇(明治三十三)年、正岡子規が選者となった「日本」が最初とされる。〉新聞歌壇を考察した特集「新聞歌壇の現在」の総論。歴史的な資料としての価値も高い論だ。

〈こうして投稿者や読者が物語を共有できるのは、新聞歌壇の歌の多くが作者の人生に根ざしてることと深く関係する。歌に人生が表れていないと、読者は作者の物語を追いかけられないからだ。それは伝統的な選のあり方とも関係する。〉一理あるが一首ごとなのでそこまで人生出てるかなあとも思う。

〈選ぶ側が意識してそうした人々の「生活歌」を選ぶから、新聞歌壇の膨大な数の歌を振り返ると、人々が歩んできた足跡が見える。それは歴史書では埋もれがちな(…)民衆の声とこころだ。〉マスとしてはそうだ。近藤芳美「無名者の歌」なんてまさにそれ。(教科書に載ってて結構好きだったな。)

⑤加古陽 「新聞歌壇の過去・現在・未来」新聞歌壇が現在直面している構造的な問題にも触れている。〈たいていの新聞はいま、どんどん発行部数を減らしている。(…)新聞に投稿はするけれど読まない、そんな投稿者が多数だとしたら、新聞社にとって歌壇を続ける意味が薄れてしまう。〉資本主義の世だからなあ。

〈製作費削減の一環で歌壇を廃止する新聞もあるだろうし、それどころか経営難で発行自体をやめる新聞社が相次ぐ可能性すらある。〉新聞のように盤石に見えたものがうつろいつつある。加古は新聞歌壇の運営に関わった立場から裏から表から解説してくれて、歴史的理解も現状理解も進む。優れた論だ。

『歌壇』1月号で島田修三が結社と新聞歌壇の未来を憂えている。この『短歌往来』1月号で加古陽が新聞歌壇の未来が明るくないことを予想している。後日書くが角川『短歌』1月号の座談会では結社の未来が論ぜられている。何だかすごくリンクしている。それだけ危機感が高いということか。

⑥佐藤通雅「属性の観点から」〈そして第四に、投稿者の創作動機に立ち返れば、自分に付着した属性を拭い去り、〈自分自身〉を生きたいという欲求がある。〉特集の新聞歌壇の選者の文はどんな観点から選ぶかという話が多く、とても面白く読んだが、この佐藤の文には立ち止まった。

 〈属性を払拭し、〈自分自身〉になりたいと欲求したとき、そこに文学表現がある。〉こうした論調の文を読む度に私は懐疑的になる。人が自分の意志で属性を払拭したりできるのだろうか?長い間身についた属性は内面化されないか?属性が〈自分自身〉の一部である場合も多いのではないか?

 災害に見舞われ、〈生のがわにのこされるか、死のがわに引きずり込まれるかは全くの偶然。家族も学校も国家もなんの支えにもならず、自分一個の生が、無力のまま投げ出される。〉佐藤がこうした立場で属性を払拭した存在、というならそれは分かる。が、〈自分自身〉になる、とかと微妙に違う気がする。

2022.2.9.~10.Twitterより編集再掲