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『短歌往来』2021年4月号

①田中教子「前登志夫と反文明」〈茂吉において、自然を見ることは自然から見られていることでもあり、そこにデーモニッシュな性格があると前は見る。〉前登志夫による斎藤茂吉と佐藤佐太郎の比較。よく比較される二人だが前登志夫の視点が興味深い。

冬空の青岸渡寺の庭にいでて風にかたむく那智の滝みゆ 佐藤佐太郎 〈前によれば「滝」とは、凄まじい修羅のひびきと超越的な清浄感を感じさせる霊妙なデーモンであるのに、佐太郎の歌にはそのデーモンを感じないというのである。〉佐太郎の代表作を一刀両断。だが確かにこの歌の滝は頼りない。

〈筆者が思うに、茂吉も佐太郎も作歌の方法は「写生」であることに変わりはない。だが、茂吉には見えないものを感じる憑依体質的なところがあり、それに比べると佐太郎は現実的である。〉田中の言う憑依体質は、前の言うデーモニッシュだろう。茂吉の写生の特異性と、写生そのものの難しさを思う。

人生は旅といふ されば旅人の夫に峠の蕎麦を食べさす 日高堯子 夫婦のどちらかが旅人。その場合、旅人で無い方はどのように自分の心を保ったらいいのだろうか。私はあなたにとって、通りすがりの峠の蕎麦屋かい?と思わないでもないだろう。日高の歌はとても静謐だが。

 日高の夫を詠んだ歌がとても好きだ。誰にとっても、老いは簡単に受け入れたり、諦めたり、見ないふりをできないものだ。特に性の問題は。日高の歌は確かにこの問題を詠っていると思うし、現行、日高しか詠っていないのではないか。

2021.4.26.~27.Twitterより編集再掲