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『短歌研究』2021年3月号(1)

握手して別れてその死は二週間後あらしのごとくなべては過ぎぬ 小池光 連作「弟」より。癌の専門医である作者の弟が癌になり、見つかって二ヶ月後に亡くなった。「あらしのごとく」は慣用的な言い回しだが、この状況で工夫した比喩はできなかったのだ。比喩について考えた。

餅米の袋を抱ふ にんげんでなき冷たさが身に添うて来ぬ 梶原さい子 正月の餅搗きのために餅米の袋を運ぶ主体。米袋は形を変えて身に添ってくる。人間の体を運んだ記憶が、体感として蘇る。冷たさが身に添う、という表現にリアリティを感じる。

破れたるページを留めるつぎはぎのセロハンテープどれもが心 山木礼子 ノートか絵本か、使い込まれて何度もセロハンテープで留め直されている。そのつぎはぎの一つ一つが心だという把握。毎日がギリギリで、セロハンテープで留めるように継ぎ足して過ごしているのだろうか。

泥乾びて棄てられている写真帖 泥の隙よりをさなご笑ふ 高木佳子 持ち主が亡くなったのか、泥にまみれたからか、アルバムが捨てられている。写真を依り代のように感じるので、幼児の笑顔が痛ましくて堪らない。乾、棄、隙など、語の選択が確実だ。写実だけに終わっていない。

復旧のはやさよろこぶそののちの夕(ゆふ)たうとつにくる疚しさは 浅野大輝 同じ速度で全ての場所の復旧が進む訳ではない以上、速さは喜びに直結し難い。亡くなった人やその死を悼んでいる人には、復旧の速さは悲しみを減じることに逆行するのかもしれない。それを思う主体。

雑食の蛸であるゆゑ太すぎる今年の足を皆畏れたり 梶原さい子:黒木三千代〈いまだに遺体が上がっていない死者がおられる。(...) それ故に、生者は皆、太った蛸を畏れる。(…)おそれつつしむ意味の「畏」が使われている。〉「畏」への黒木の解説が的確だ。「今年」は十年前の2011年。

2021.3.21.~26.Twitterより編集再掲