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『現代短歌』2022年11月号(1)

①堀静香「『青い舌』書評」
わたしがきみの傷となるかもしれぬ日を思って胸を叩いて寝かす 山崎聡子」 〈もしかするとその子を傷つけるのは他でもない自分なのではないか。(…)子を生むという最大限の暴力は入れ子のようで、その時ふと自らの加害の可能性が胸をかすめる。親が子どもにしてやれることなどきっとほんのわずかなのだと知りながら、それでもこの夜を安らかに眠れるように、子どもの胸を叩いてやる。〉
子の頭に帽子をのせて長生きをしてもしなくてもあなたをまもる 同」 〈ここにあるのは今であるということ、今でしかないということ。子育てはただひたすらにその連続で、ずっと今がある。果てしなく、しかしいつか来るお互いの死を思えばその有限の時間に私ができること。ただ、目の前の子どもに帽子を被せてやる。〉
 選んでいる歌もいいし、読みもいい。元々好きな歌集なのだけれど、人の読みで理解が深まる。頷きながら読んだ。

②「第三回BR賞選考座談会」 堀静香『青い舌』書評について
加藤英彦〈この人はそれなりに安定した書き手なんですけれども、ただ、書き方が少し真面目過ぎて、(…)歌を引用したら、まず一首目、次は二首目、そして三首目って読者に説明していくパターンが多いですね。でも、書評は未読の読者を想定しているので、もうちょっと、読ませるための展開を工夫してもいいのに、と思います。この評者の批評力は十分に認めつつ、どうせなら、引用歌を中心に書くのではなく、評者の視点を中心に書いたほうがさらによかった……〉
 よく分からないな。この書き方は「真面目過ぎる」のだろうか。ごくオーソドックスな書評の書き方だと思う。書評を引用歌を中心に書かないで、評者の視点を中心に書くというのが何を意味しているのか分からない。その歌集にあるテーマを自分なりに解釈し、それについて引用歌を引き、引用歌を中心に書くものでは。

③「BR賞選考座談会」 染野太朗〈細部の読みとかに賛成できなくても、こうやって矮小化されちゃうぐらいだったら、多少壊れてても、「おッ!」と思うような一点突破の力がある書評のほうに可能性を見出したいというのはありました。(…)あまりにも歌集を物語化しすぎているというか。(…)ステレオタイプなところに持って行き過ぎ、抽象化しすぎと言えばいいのかな。〉
 後半のところは分かるのだが、それにしても前半に引いた、細部の読みに賛成できなくても、多少壊れてても、というのは理解できない。書評なら読みが大事なのでは…?壊れててもいいというのはどういうものを指すのか。一点突破が指すものも分からない。ちょっと抽象的な表現過ぎないか、などなど思いながら読んだ。

④「BR賞選考座談会」 今回の選考座談会を読んで、書評って一体何だろうと改めて考えさせられた。選考委員が書評に求めているものと、私個人が書評について考えていることに乖離があるように思えて、どうも落ち着かない。
 私自身が書評に関して考えることで今回の選考委員と違うなーと思った第一は、私は書評はその歌集の魅力を伝えるもの、歌集の良い点(自分が良い点だと思うところ)を読者に伝えるものだと思っていることだ。つまり、歌集とその作者が主役。書評の書き手は脇役。黒衣、通訳のようなものということ。
 歌集より、書評が前へ出るのは違うんじゃないかと思ってる。そこが選考委員と私の意見が一致してるのかどうか、どうも委員の意見が抽象的で、はっきり分からなかった。違っててもいいんだけど。もう少し具体的にどういうものを求めているか知りたいと思った。

2022.11.18.~19.Twitterより編集再掲