見出し画像

『ねむらない樹』vol.4 2020.2.

水銀を熱し続けていくような沈黙の後君が吾を呼ぶ 渡邊新月 密度の濃い、圧の高い沈黙だ。その限界まで来た時に、君の声で沈黙が破られる。とても丁寧な表現だ。「吾(あ)」という一人称も歌に合っている。

加湿器の水入れ替える手は細く自分の弱さはよく知っている 渡邊新月 上句は情景で具体が生きている。下句から考えておそらく自分の手を言っているのだろう。まだ何かを強く掴めない細さ。今自分にできることをしながら自分の弱さを考える。繊細な一首。

鎖骨のくぼみにいつからか咲いたネモフィラがときどき揺れるみたいに痛む 川上まなみ 長い比喩。言いたいのは「痛む」ということだけだろう。いつからかネモフィラに占有されてしまった鎖骨の窪み。その花の揺れが痛みに繋がるという感覚。大胆だが伝わる比喩。

キャラメルを舐めきったあとの酸っぱさのようで言葉がうまくつげない はね これも長い比喩。キャラメルを噛んでしまわずに辛抱強く舐めきった。その後口の中に残る違和感。「酸っぱさ」が独特。それが全て比喩で、言葉が上手く繋がらない不全さが読者によく伝わってくる。

⑤「選考座談会」長嶋有〈僕が短歌というもので苦手に思う「私」とか「感傷」とか、それが出せることこそ短歌の良さだと思うんだけど、だから僕があんまり短歌を読まない面もあるんですよ。〉この座談会は毎回ゲスト選者の言葉に興味を引かれることが多い。今回はこの発言。

⑥大松達知「忘れがたい歌人・歌書」
努力さへしてをればよしといふものにあらずパセリを刻みつつ思ふ 安立スハル
〈安立の特長の一つは、箴言性にある。哲学的な深みをユーモラスに言い替える。(…)世間の常識や建前の重圧に一矢報いる知的な爽快感がある。〉
 大松は安立の「人間に如(し)くものはないと思いますね。私は人間が好きです」という発言を引用している。人間が好きだから、鋭く詠っても温かい感じになるのだろうな。また、大松の文にもあるように、安立の歌は確かに「口語調」だと思った。

⑦ながや宏高「杉﨑恒夫論④」 
地球反照小ぐらき月を人類の生命たしかにめぐり居りいま 杉﨑恒夫「朝日新聞」(1969.1.19.)
 著者はまずこの歌を一首の言葉から丁寧に読み進む。そして初出が朝日新聞の五島美代子選歌欄であり、他の作者の歌を読んだ時の気づきを記している。
〈筆者は最初、この選歌欄の中では杉﨑の歌しか読んでいなかったので時代背景に気づくことはなかった。他の作者の歌の中にあった〈アポロ八号〉という単語が目に入らなければそのまま通り過ぎていた。〉
 著者は最初杉﨑の歌を漠然とした人類(杉﨑も含む)の生命と捉えていたが、他の作者の歌から、これは今まさに月を周回している宇宙船の中の、三人の宇宙飛行士の生命を詠ったものだという読みを得た。著者が言うように、必ずしもその現実の事象を当てはめて読む必要は無いかも知れないが、初出に当たった時のスリリングな読みの変化が手に取るように分かり、興味深かった。

⑧ながや宏高「杉﨑恒夫論」この論で著者は、杉﨑の第一歌集以前の歌は新聞歌壇に載った歌が『昭和萬葉集』に収録された一首だけが、書籍の形で読めると述べている。第一歌集以前の歌はそれ以降と表現が違うことも指摘している。とても学びの多い読み応えのある論だった。

2022.6.28.~29.Twitterより編集再掲