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『塔』2021年9月号(1)

どくだみの根を抜いてゆく快感は根を抜かれゆく快感に似て 花山多佳子 抜いてゆく時にふっと軽くなってするっと抜ける。これを快感と呼ぶのは分かる。しかし、抜かれゆく、とは何が何から?自分が根を抜く時、自分の中から何かが抜かれてゆくような感覚を覚えるということだろうか。

屋上より見おろすプールに影なくて抹茶ういろうのごとき静けさ 藤田千鶴 思わずニヤリとした比喩。抹茶ういろうのような色、というなら分かるが、静けさ、というところにひねりが効いている。さざなみ一つ立たないツルンとした水面が、皿の上にしずもるういろうを想起させる。

どこからかわからぬままにだがいつもケンブリッジの街に鐘鳴る 北奥宗佑 いかにも英国…という私の個人的な英国観に触れて来る歌。セント・クレメンツの鐘が鳴るよ…で始まるマザーグースを使った「ポーの一族」の場面が頭を過った。在英経験が無い者の憧れかも知れない。

切り株の根方に細き芽吹きあり伐られたる樹の遺言のごと 畑久美子 誰でもよく目にする風景かもしれない。切り株の回りに若い細い芽。しかしそれを伐られた樹の「遺言」と取る感性に惹かれた。伸びても大樹にならなそうな芽に、伐られた樹の無念が宿っている。

⑤吉川宏志「リアリティということ」〈リアリティとは、今この場にないものが、幻影としてありありと感じられることである。リアリティ(現実性)と幻想とは(…)実は深いところでつながっている。〉リアリティ、リアリズムとは?今その定義をし直す時だろう。後半の主張に惹かれる。

〈実際にあったことをそのまま書けばリアリティは生まれてくると信じている人がいるけれど、それは誤りといえよう。〉はーい(挙手)。二十年ぐらい誤っていました。というか、そうじゃないとリアリティが無いと思ってた。最近、それじゃダメとも思う反面、まだ迷いもある。

〈リアリティとは物自体にあるのではなく、表現を作り出した他者に感じるものなのだ。〉モノを描写し、モノに語らせる、というのもあると思うが、吉川の語るリアリティ論は説得力がある。
ここに引いてないところが読みどころ。ぜひ原文で。

⑥吉川宏志「800号記念号に寄せて」〈繰り返し読んでいるのに、そのたびに新しい発見がある、という歌集が私にはあります。(…)優れた歌集は、読者を子どもの状態にする、と言ってもいいのかもしれない。〉子どもが同じ絵本を繰り返し読むように、歌集を何度も繰り返し読む。その喜び。

『塔』は1954年の創刊。2021年9月号は、800号記念号。特集Ⅰは「そもそも歌集ってどう読んでる?」で座談会と会員アンケート。特集Ⅱは会員の評論。実に7本の評論。テーマは自由だったのだが、歌の読み方に関する論が集った。いずれも力作だ。

⑦「そもそも歌集ってどう読んでる?」大松達知(コスモス)、河野美砂子、濱松哲朗、川本千栄(司会)。取り上げた歌集、小林真代『ターフ』、大口玲子『自由』、三枝浩樹『黄昏』、笠木拓『はるかカーテンコールまで』。一首で読むか、連作で読むか、一冊で読むか、一人の歌人を全歌集的に読むか。経験の作品化。具体と抽象。チューニングを合わせて読む。今、短歌というジャンルは…。等の論点が出た。

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⑧「歌集の読み方 会員アンケート」〈抽象的な詩感覚の歌(ことに若い世代の)が理解しづらいので読んでいて共感が少ない。そのことにわが身の感受性の衰えも覚えてしまう。そんな時はもう歌を作ることの意味に悩んでしまう。〉これは分かるなあ。この方はとても真面目なのだと思う。

個人的な感想で言うと「慣れ」ってあると思う。私は歌会で見る「塔」の人の抽象的な歌から慣れていって、抽象的な歌集も楽しめるようになってきた。最近ね。でも未だに全く理解できない歌集もたくさんあり、そんな歌集が高く評価されていると不安になる。

 で、自分の理解できる、好きな歌集を思う存分読んだ後、理解できないと一度思った歌集に戻ると、ふっと好きになったりする。その繰り返しかな。もちろん好きにならなかったりもする。でも全部理解できなくても、全部好きにならなくてもいいと思うと、歌集を読み、歌を作るのがまた好きになる。

2021.10.29.~31.Twitterより編集再掲