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『塔』2021年10月号(2)

浅い夢 自分のための物語じぶんで書き続けてるような 上澄眠 浅い夢を見ている時に、自分でその筋書きを書いている感覚になることがある。次はこうなる、こうしようというように。意識と無意識のあわい。いつまでも続きそうですぐ覚めそうな。人生を浅い夢に喩えているとも読める。

なうそこの猫よ 一昨日あの青い紫陽花の辺で会うたではないか 千村久仁子 然り、されどそは過ぎたことなり…とか猫が答えそうだ。古典の一場面のようにも思えた。「なう」は「のう」、「会う」は「おう」と発音。「なう」と「会う」の音韻が響き合う。あの、青い、紫陽花、の「ア音」の繋がりも、芝居の台詞のようで面白い。

湖に降る雨を眺めていた 夜はきみに盗掘される身体で 田村穂隆 ひりつくような心を感じさせる歌。読後、読者である自分の身体の置き処が無くなるように思えた。「盗掘」という言葉をこれほど詩語に高めることができるのだなあ。「湖」は「うみ」と読み、三句の句割れを味わう。

毛に白がほどよくあればあのこだって愛されたのか駆除などされず 東大路エリカ 山から降り、駆除される月の輪熊。白い毛がほどよくあり、愛されるパンダ。人間の価値観によって扱いが違う。「お腹すき歩き回れど撃たれぬは今日の私が熊じゃないだけ」はさらに深く詠っている。

舌垂れるようにはなびらひらきゆくこころに河口がもしあるならば 中田明子 初句の比喩に惹かれる。何の花だろう。生々しい、もっと言えば生臭いような印象だ。三句終止形と取った。花が開くこと、川が河口で海へと開いていくことが絶妙に付かず離れず。河口で一気に景が大きくなる。河口があるなら自分の心は海へ解放できるのに、という思いだろうか。上句の細かい描写には肉体感があり、下句の大きな詠い口には精神性を感じた。

ばらが咲くための場所だと知ってからわたしのあばら骨は庭である 小松岬 「あばら骨」が無ければ全く整合性のある文章。それが「あばら骨」の一語で詩として飛翔する。痩せこけて骨が浮くような身体に咲くばら。ばらが咲く庭を得て、自らを愛でる領分を得た。結句の断言が魅力。

怒りには限りなどなしペパーミント世の果てまでも繁殖をせよ 小松岬 ハーブは繁殖力が強い。特にミント類は限りなく増えてゆく。それを自分の怒りと捉えた。庭の果てまで、世の果てまで繁殖していくペパーミント。その香りが続くように主体の怒りも続いていく。

あなたといふ隙間に指を挿し入れてこの寂しさをどうすればいい 森山緋紗 初句二句の把握に驚く。あなたは何か充実した存在ではなく隙間なのだ。そこへ指を挿し入れる主体。隙間が指で埋まるわけでは無く、寂しさは埋まらない。多分どうすればいいと聞かれてもあなたも応えられない。

花束のなかの花にはそれぞれに名前があって君の名を呼ぶ 小島涼我 「君」の名前が花の名と同じだという話ではなく、四句で軽く切れるのだと思う。花に名前があるように人にも名前がある事実。だが、名を呼ぶことは二人の関係に大きな意味を持つ。そこに加わる花束のイメージ。

2021.12.10.~12.Twitterより編集再掲