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『ねむらない樹』vol.2 2019.2.(1)

自分ちにいるのに家に帰りたい刈っても刈っても蔦の這う家 柴田葵 居場所が無い、ここも違う、という感覚が伝わってくる。蔦は抗い難い力として、主体の居場所を狭めてくる。自然の力であり、前後の歌から、血縁の力だろう。

『ねむらない樹』を古い号から全部読もうと思ってやっとvol.2。扱われている話題も既視感ありだが、改めて読んでいる。

未消化の言葉を嘔吐する背中さすってくれる手もないままに 八重樫拓也〈きれいで上手な短歌なんて絶対に作れないし、もう最終的には「吐瀉物をこねて丸めて投げつけてやれ」みたいな気持ちで応募しました。…いいゲロだね!と素手でキャッチしてもらえたようで嬉しいです〉

 最近、嘔吐排泄系の短歌をよく見るような気がするが、現代短歌におけるこの素材は意外に古く、おそらく仙波龍英『わたしは可愛い三月兎』(1985)が嚆矢。短歌が上段に構え、きれいなものであろうとすれば、必ず反作用的に汚物が素材として出て来るのではないかと思う。私は、一種の傾向と捉えている。

諍いはぼくの無傷をなぞりゆく あなたが泣いてあなたがあやまる 井村拓哉 無傷であって無罪ではない。主体は諍いになっても傷つかない。結局悪いわけではないあなたが泣いて謝る。関係性が痛々しい。「きみがもつ鋏はしずか カーテンを北から南へ裁ってゆくまで」も好き。

ぺちらんと餅つく如く身体をたたきつけあういきものわれら 富田正人 初句のオノマトペが適切かどうか分からないが、二句の比喩が三句の行為(おそらく性行為)をうまく表していると思う。人間を「いきもの」と表現するのも即物的で好み。

死にたいと殺してやるの境目に差し込みひらくうつくしい傘 穂崎円 人を酷く憎んで絶望的な気分になった時、「死にたい」と「殺してやる」が自分の中で同じになることがある。その気分の境目に差し込んで開く傘。おそらく何かを潜り抜けた苦しみが傘を美しく感じさせるのだ。

飲み残しの薬を捨てる指までがぎりぎり自分だったと思う 迂回 薬は何だろう。精神安定剤的なものだろうか。その薬を飲み残して捨てたところまでが、自分の意識として責任の取れる範囲だったということか。今はもう自分を失った状態にいるのだろう。強い孤独感を感じる。

2021.5.25.~27.Twitterより編集再掲