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『ねむらない樹』vol.7 2021.8.

①「座談会 時代が葛原妙子に追いついた」石川美南・水原紫苑・睦月都・吉川宏志 石川〈自分の個を消して、社会そのものや、完全な虚構を詠いうるかということについては明確にNOで、自分の体験や感覚を引き連れた上で社会を書けないと意味がなかった。〉これは大切な指摘。
    葛原妙子というと、自分の体験や感覚を重視しているイメージはあまりないのではないか。実は体験を大切にしているということが、今回の特集を通して分かった。私自身代表的な歌集しか読んでいないので、これから読んでいく上で、この石川の指摘は心に留めておきたいと思った。

②楠誓英「『葡萄木立』における空間表現」
〈葛原は、現実の実感を大切にしていた歌人で、例えば、森岡貞香は、「全くの無からは絶対に作らない人ですよ。『葡萄木立』のときだって、わざわざ甲州に一人で行くのよ。そして、葡萄園を歩いてきて作ったわね。」と述べている。ここでも現実の視点が活かされている。〉  
 「幻視の女王」と呼ばれながらも、実際に見ることを積み重ねて幻視にいたったのだという感想を、この特集で抱いた。元々どんな歌人も「無」からは作れないのではないか。言葉の飛躍は実体験の裏付けがあるからこそだろう。

③濱田美枝子「「女人短歌」とは何だったのか?」
 簡潔で全体がつかめる論だった。この論で印象的なのは五島美代子と長沢美津の対比だ。
〈戦後いち早く男性に伍して活躍していた五島は、新しい短歌会が「女だけの」ということに躊躇もあった。しかし、多くの認められない女歌人のためにと迫る長沢の直向きさに気圧されて加わった。〉
 二人の立場の違い、考え方の違いがよく分かって興味深い。そして結局、道を同じくしたのだ。
〈「女人短歌」は「アララギ」終刊と時を同じくして1997年12月に終刊した。〉
 「アララギ」と同時期だというところが何とも象徴的だ。
〈森岡貞香は終刊号で「(…)現在は女歌人だけの横のつながりというよりは男性に伍して、女性も互いに活動していくのであって、当初の目的は充分に達成したと思います」と終刊の辞を述べた。〉
 これを読んでも五島美代子の先見性が良く分かる。挙げられた歌も個人的には五島のものが好みだった。

④佐伯裕子「「女人短歌」の葛原妙子」
葛原は阿部静枝のなりかわりの方法による虚構に対し、自分の虚構は
〈「人のことではなく自分ののつぴきならぬ内實」の詩への昇華に必要な虚構なのだ、と批判した。〉
〈「なりかわり」の阿部の虚構にリアリティを添えて対峙したのである。超現実の作風といわれる葛原だが、その片足はいつも現実に着けようとしていた。〉
 佐伯の論は例歌を挙げて分かりやすく説かれている。事実のみの歌にも、なりかわりによる虚構にも拠らない、葛原の虚構の方法が明らかになっている。この「女人短歌」の特集は、葛原の特集と上手くリンクしている。
 葛原の論、「短歌に於ける虚構について」は、内容が古びておらず、現代の短歌にも当てはまる。今後、虚構論議が起これば、参照できるのではないか。

感心はすれど感動はさせられぬ修辞は自転車操業だろう 永田紅 三句切れか、連体修飾か、で三句切れと取った。修辞そのものの喩としての自転車操業、と。確かに修辞で感心しても感動することはあまり無い。それでも自転車操業として乗り続けていくしかないのか。

2022.7.1.Twitterより編集再掲