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『塔』2021年10月号(3)

真昼間に眩んでしまう直情のひかりは夏をあまねく帯びて 山川仁帆 真夏の昼のまぶしい光に思わず目眩がした。事実としてはそれだけとしても「直情のひかり」「夏を…帯びて」という表現が魅力。人の感情を光と言っているようにも取れる。相手の直情に目眩に似た思いがしているのか。

長靴の性能試してみたくなり子等は必ず水溜まりの中/剣道の防具やホルンのケースなど中学生の月曜の朝 白澤真史 なぜ子供たちは必ず水溜まりに入るのか。中学生になると少しオトナ。水溜まりなんかに入りません。荷物も重いし。朝の通学風景。長靴、防具、ホルンの具体がいい。

己が身の執念く思ゆる梅雨曇り「吾は汝を許す」と唱ふ 俵山友里 「許す」と一心に唱えるということは許せていないということ。そんな自分が執念深く思えて嫌になる。梅雨曇りが陰鬱な気持ちを増す。許すことは忘れること。多分、覚えている限り、意識的には許せないのではないか。

騙されない嘘つかれない忘れない騙されて嘘つかれた夜の 丸山恵子 まるで何かのスローガンのような上句を、面白いと読み出すと、下句でそれらを今日経験したのだと分かり、苦い気持ちになる。初句二句と四句五句が対比の構造。まさに三句が要で、歌を繋ぎ、決意を示している。

紫陽花が枯れて首ごと地に落つる花ならば 君を踏んだだらうな 永山凌平 紫陽花が椿のように首ごと落ちたら、相当な迫力だ。一字空けの後の「君」は誰か人を、紫陽花に喩えているのか。枯れて無惨な姿を晒しても立っている紫陽花だから踏まない、君のことも踏まない、と取った。

もう何もしたくない日は体ぢゆうひまはり咲かせて黄に埋(うづ)もれて 今井早苗 本当にそんな風に自分の身体を捉えられたら、リラックスできるだろうな。全身を太陽の前に解放して何も考えず黄色に埋もれる。これがやはりダリアでもカンナでもだめで、ひまわりの明るさがいいのだ。

きみの背にふれつつ降りてゆくのかな山あじさいの枯れない場所へ 浅井文人 君の背に触れるか触れないかの距離感で、山あじさいの咲く場所へ降りてゆく。実景のようでもあり、二人の関係性の喩とも取れる。喩であれば下句の場所は一つの理想郷にも思える。「~かな」の曖昧さが魅力。

㉖永山凌平:濱松哲朗評論集『日々の鎖、時々の声』〈そこに見て取れるのは、構造への批判や短歌の中の〈私〉、描かれないものへの視線など、濱松の一貫した問題意識、興味、鑑賞力である。〉骨太の評論集を真正面から解析した文章。濱松の問題意識をクリアにして一冊を読み解いている。

怒りとは鎮めるものにあらずして手放すものと僧は説きたり 小林文生 最近よく聞く「怒りを手放す」という言葉。主体はその言葉に戸惑っているのでは。鎮めるならイメージできるが、手放すではイメージできない。ではどうすれば手放せるのか。おそらく僧の話には続きがあるのだろう。

引き潮のときに逝きたりこの星の呼吸のなかにさらわれゆけり 森川たみ子 潮の満ち引きを地球の呼吸と捉えた。その引き潮の時に吸われるように命がさらわれていった。亡くなられたのは、前後の歌から主体が介護していた母だろう。人知を超えた大きな力を感じ、敬虔な思いにうたれる。

2021.12.12.~14.Twitterより編集再掲