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河野裕子『桜森』12

この家に滅びし者らの掌のあぶら月差す壁に冥く浮き出づ 
 連作「婆裟羅襤褸」最後の一首。老いさらばえて死んでいく祖母の襤褸布のような姿を描いた一連。この家は実家だろう。祖母以前に死んだ者たちの手の脂が、主体の目には浮き出すように見えるのだ。死を生々しく捉えた一首。

くらやみに髪梳く背後ひたひたと気配したしく沼が近づく 
 暗闇で髪を梳いている。その後ろにひたひたと沼が近づいて来る。心の沼だろうか。その気配は主体にとって親しいものに感じられる。自分の心の中を見ないようにしていても、その醜い部分が外部から迫ってくるのだ。

とかげのやうに灼けつく壁に貼りつきてふるへてをりぬひとを憎みて 
 初句が比喩として描かれているが、おそらく上句全体が比喩なのだろう。憎しみで身体の置き場が無い。どこにいても炎天下の壁にいて灼かれているかのようだ。全身が震えるほどの憎しみを比喩があぶり出す。

頬を打ち尻打ちかき抱き眠る夜夜われが火種の二人子太る 
 しつけというより、自分の喜怒哀楽をまともにぶつけているような、子との日々。自分が子供たちの存在の火種であり、日常の色々な出来事の火種なのだという自覚。それでも子供たちは大らかに成長していくのだ。
 連作「沼」の一首目が「くらやみに」、二首目が「とかげのやうに」、四首目がこの「頬を打ち」。よくこの歌は健康的で破天荒な子育ての歌のように評されるが、そんなことは無い。作者の感情の機微はもっと暗くて繊細だ。アンソロジーで読むのと、歌集で読むのに差がある歌だ。

このおほきいきものの樹が春ごとに空に噴き出すしろさくらばな 
 桜の木を「いきものの樹」と呼んだ時に、木が自分と同じ生物であることが実感され、木の中にある樹液の動きさえが感じられるように思う。その循環が空に噴き出すようにして花を咲かせる。桜の樹と主体との命の交歓。

誰もたれもうす暗がりを背に負ひて大き火に向き円陣組めり 
 寓話のような一首。人はみなそれぞれの薄暗がりを負っている。他人に見せられない暗部を秘め持ちながら、命の根源のような大きな火を囲んでいる。皆で円陣を組み、他者の存在を感じているのだ。

油断して陽の照る方(かた)へ歩みゆく尻まるきアヒルの中なるわれか 
 安心しきって日なたへ歩いていくアヒル。「尻まるき」は太っていることの形容だろう。そんな暢気なアヒルの中に自分がいるようだと主体は詠う。暖かな屋外で少し穏やかな気持ちになっているのだろう。
 この歌は『桜森』の中では例外的に明るく、開放的な気分の歌だ。この歌や、体当たり子育て的な歌だけを取り出して『桜森』を捉えると、かなり違う理解になってしまう。性愛の歌や、友や祖母の死の歌などを多く含む『桜森』は、数首の引用では表せない多面体の歌集なのだ。

2022.2.25.Twitterより編集再掲