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角川『短歌』2021年9月号

月経(つきのもの)ありて春の香したしきとうたひし人へ、二〇二一年 米川千嘉子 岡本かの子の「健やかなるわが月経早春のものの香けさはわきて親しき」を詞書とする。2021年現在の意識より遥かに進んでいたかの子。いや、進んでいるというより命の原初に近かったのだろう。

古雑誌繰りても繰りてもかの子の歌は取り上げられず 恐れたるべし 米川千嘉子 そんな命の原初に近い感覚を、何の束縛も感じずにすらっと詠うかの子を、近代歌人たちは恐れたのか。賛辞も非難も無く、ひたすらの黙殺。古い雑誌を調べ尽くした上での一首。単なる感想とは違う重みがある。

たましひの重さは17グラムとぞAIの計り空恐ろしく 松川洋子 一体このAIは何をもって「たましひ」と認定し、どうやって「重さ」を計ったのか。何か知らんうちに、ちゃんとやってる感。実にAIっぽい。それで17グラムっていう何とも絶妙に具体的な重量。恐ろしいより笑える。

虹を懸け鳥を幾万飛ばせても空はさみしい地が見えるから 松川洋子 主体は飛行機で空を飛びながら地を見ている。あるいはその記憶。オリンピックの時節柄「虹と雪のバラード」をふと思ったが、この一首は孤独感が強く、華やかな空と寂しい地の対比が印象的。空は地でもある。

傷ついたひとは美しとの言説を地のすみずみへ問いとして置く 江戸雪 主体はこの言説を信じていない。だから答えを求めて地の隅々に置く。美(は)しと呼ぶことで傷つくことを美化し、傷つける側を正当化しているのではないか。美しくても傷つきたくない本音が誰にもあるはずだ。

⑤東郷雄二「時評」〈「写生」と「リアリズム」を別物だとする永井祐の見解は注目に値するように思われる。〉これを「見解」と呼ぶのが分からない。「写生」と「リアリズム」は元々別物ではないか。それともこの二つは同一だという考え方があるのだろうか。知りたい。

⑥東郷雄二「時評」〈斉藤斎藤は大辻隆弘の論を引いて(…)海の方角を想像していた大過去、呆然と我を忘れる過去、そのことに気づいた今という三つの時点が(…)助動詞によって表現されているとする。〉2014年のこの論には英語言語学者やネイティブに意見を言ってもらいたい。

 私の接した範囲のネイティブの場合だが、彼らの時間感覚は大過去→過去→現在という風に流れていない。大過去はあくまで比較の概念として出て来るだけで、単独で最も古い事を考える時は過去形だ。この3ステップの時間の感じ方はむしろ日本語話者の感覚だと思う。本気で言語学者に聞いてみたい。

 だからこそ、英語の現在形も現在完了形も実感として掴めない日本語話者が、過去完了のそれも大過去の話だけはすぐに腑に落ちて納得するのではないか。もちろん私も同じ。時制の感覚は言語ごとに大きく違う。体感的で、理屈で捉えにくい。

⑦東郷雄二「時評」〈斎藤は近代の文語短歌の時間組織は英語のシステムに近いと述べている。この指摘は興味深いが、さらなる論究は別の機会に譲りたい。〉明治維新後、外国語教育が始まったが、そんなに早く外国語の時制意識が日本語に影響を及ぼすほど広まったのだろうか。

 それに旧制高校の外国語教育は今ほど英語一辺倒ではなく、ドイツ語とフランス語が英語と同じほど重みを持っていたはずだ。斎藤茂吉の外国語はドイツ語だったのではないか。英語・ドイツ語・フランス語、時制意識は皆違う。東郷はフランス語の専門家だ。何か言って欲しいな。

 フランス語を大学で習った時、半過去や複合過去が理解できず挫折。まだ英語の時制の方が分かりやすいと思ったな…。時制に対する感覚がそう簡単に変えられるものではないことを肌で実感してるだけに、大辻や斎藤の2014年当時の議論を非常に懐疑的に読んでいた。

⑧2014年当時はツイッターやってなかったので、今回東郷雄二の「時評」のおかげで、やっとこの問題についてつぶやけた。あくまで個人の感想だったんだけど、非常にもやもやしてたので…。ネイティブや言語学者の意見が聞きたい。私の言ってることが違うというご指摘でも歓迎だ。

2021.10.21.~24.Twitterより編集再掲