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『塔』2021年10月号(1)

①澤村斉美「河野裕子の一首」語らずなほも語らずそのひとの寡黙の舳先にわれは夜の海 河野裕子 『はやりを』〈下句は詩的な広がりを得ており、表現上のカタルシスがある。〉行き届いた評で歌が生きる。何度も読んだ歌集だが、この歌は注目していなかった。読めば読むほど深い、河野裕子の歌集。

死と死と死と その裡に我は生きていて憎しみをもうどこかに置きたい 小川和恵 初句は意味のある言葉だが陰鬱な雨音のオノマトペのようだ。憎しみを手放す、とはよく使われる言い方だが、それに倣って、手放せないまでも、一時的にどこかに置きたいと詠う。「もう」が効いている。

接種せしのちはだるしと横たわる夫が渾身の脱力を見す 金田光世 渾身の脱力って…。思わず笑った。脱力って渾身でするものなの? おそらく夫はコロナワクチンの接種後、だるいと横たわっていただけで、それを渾身と捉えたのは作者。見たこともないほどの脱力状態だったのだろう。

それを生存戦略なんて呼ばないで散るときはどの言葉もひとり 永田紅 必死で発した言葉を「生存戦略」のように解されたのだろう。上句は小さな悲鳴のように取れる。言葉を発しても伝わらないことを、言葉が散ると表現する。どの発言も自分の責任。ひとりに帰するものだなのだ。

腹側を見られてゐると気がつかぬヤモリの子にある蒼き内臓 岡田ゆり 家の灯火に惹かれて子ヤモリが窓に貼りついている。ヤモリからすれば家の中を覗き込んでいる。人間からすれば窓越しにヤモリの腹を見ている。静脈の血が青く見えるように、ヤモリの内臓も蒼い。冷たそうな内臓だ。

パルミジャーノ・レッジャーノの雪リズム良く降らす真夏のカルボナーラに 高山葉月 筒入りの粉チーズを振るのではなく、固形チーズをリズム良く削ってパスタにかける。チーズ名、料理名がオノマトペのようで歌もリズム良く響く。雪と真夏の取り合わせも良い、楽しい気分に満ちた歌。

⑦吉川宏志「青蝉通信」〈芸を極めるには、卑小な自分を捨てなければならない。しかし、それを意識した途端、〈自分を捨てようとする自分〉が生じてしまう。これは、短歌を作る上でもしばしば起きることだ。自意識の檻から逃れることはできない。この矛盾をどう超えればいいのか。〉

藤沢周の『世阿弥 最後の花』を読んでの文。世阿弥だから能の話なのだが、短歌にも通じることが多い。短歌(和歌)とそれ以外の芸術の相互関係は古来深いものがあったのだなあ。現代の私たちがそれに無頓着なだけで…。
『塔』10月号「青蝉通信」はこちらで読めます。
https://toutankakai.com/magazine/post/12957/

金継ぎより聖母戻りぬ 函をあけ屈むとき床に毛先が触れて 橋本恵美 主体の身代わりになって割れたのかも知れない聖母像。その聖母像が金継ぎから帰ってきた。箱を開けようと屈んだ主体の髪が床に触れる。待つ間に伸びた髪が。現実を描いているのに物語のような一連。引き込まれた。

⑨川本千栄「香川景樹が「旧派」となるまで」短歌を始めた頃からずっと疑問だった旧派について調べて書きました。旧派は、江戸時代に起こった桂園派の流れを汲むもので、何百年も続いたものではないこと、その祖である香川景樹が口語を推奨したことを書きました。ぜひお読み下さい。

2021.12.7.~10.Twitterより編集再掲