『歌壇』2021年7月号(1)
①助からないのではないか、と漠然と思ひたり何のことといふでもなくて 花山多佳子 12・6・5・6・7と取ったが、ここまで破調だと句分けは不要とすら思えてくる。初句を早口で読むと、二句以下が奇妙にゆったりする。人々の精神がコロナの危機を越えられないのでは?という危惧か。
②漱石先生とこの頃つぶやくこと多くいづちにゆかむわれはわれらは 山田富士郎 近代文学がその有効性を失い始めている、と感じられてから久しい。近代文学の薫香に寄り添って生きてきた「われはわれらは」生きていく方向が定まらないのだ。漱石先生、という感じ方すら過去のものか。
③燃えるゴミにカセット二本入れにけりさやうならシャーデー八十年代 山田富士郎 カセットを燃えるゴミに捨てる。もう聞くためのデッキも無いから。レコードと違ってチープで捨て易いカセット。そんなチープな八十年代。少し気怠いシャーデーの声と共に八十年代が消えて行く。
最初読んだ時、シャーデーってあのSmooth Operatorの?とびっくりした。短歌にシャーデーの名前を見るとは…。しかし、ここでyoutubeでシャーデーのヒット曲とか聞いたら危ないんですよね。一気に5時間ぐらい経っちゃう。カセット捨ててもyoutubeで80年代が追って来て捕まっちゃう。
④木畑紀子「日中の太陽の歌」死者へかがむときに思へり太陽の裏側もいま燃えてゐること 桑原正紀〈「死者」は原爆による犠牲者たちである(…)「太陽の裏側」と表現することで炎が可視化されて、人類の未来が危ぶまれている。〉太陽の表側だけでなく裏側も燃えている。太陽の、恵みを与える明るい表側だけでなく、全てを焼き尽くす残酷な裏側を感受し、そこに原爆の炎を重ねる。人類の所為により見えてしまったのだ。それを表現したことにより可視化したのだという読みに頷く。初句六音のぎこちなさも誠実さとして伝わる。
⑤平岡直子「時評」〈中城ふみ子のことは他人事だと思えない。不幸で、反抗的で、孤独で、ドラマチックだからだ。河野裕子のことは他人事だと思っていた。だいたい中城ふみ子の逆だからだ。〉ずいぶんざっくりまとめたなあと思う。中城と河野を二項対立的に捉えるのはどうなんだろう。
ということは河野裕子は幸福で、従順で、孤独では無く、またドラマチックでも無い、ということ?先入観を外して、何でもいいから河野裕子の歌集を読んでもらえば、そんなことは無いということに気づいてもらえるのではないかなあ。河野はまず寂しい人なのです。家族がいてもね。本質的に孤独。
そういうところが歌壇を超えて大勢の人の心を打つのではないかな。中城は不幸で河野はその反対、なのかな。他人にどう見えても、本人がそれをどう捉えてどう歌にするかは違う話だと思う。中城の特徴も河野の特徴もマルっと大きくはまとめられないんじゃないかな。
⑥平岡直子「時評」続き〈短歌のメインストリームの文体はまさにステレオタイプの人生に依存することで発達してきた。〉明治中期以降の作者イコール作中主体という私小説的設定で詠まれた短歌、特にアララギ派を指しているのかな。そういう面は確かにあり、短所でも長所でもある。
ただ〈ステレオタイプの人生〉というのはどうだろう?そんなもの無いと私は思う。十人いれば十通り、百人いれば百通りの人生がある。言っているのは、人生の経験を基にした短歌をどう考えるかという話なのだと思うが、そこにこの言葉は要るのかな。気になってしまう。
2021.8.2.~8.3.Twitterより編集再掲