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『塔』2021年9月号(2)

⑨梶原さい子「落合直文の願い事」〈直文の歌は、千三百首余りが整理されて残されているが、うち五十首近くにこれらの語(希望・願望を表す助詞・助動詞)は用いられ、また意味の上から言えば、百首いやもっと多くの歌に〈願望〉が窺える。〉落合直文が何を願ったのか。とても興味深い。

〈願い事は時に命令形で示される。ざっと五十首に見られるかたちだが、その命令の対象は、多くが自然物、そして死者へ、神へである。明らかに祝詞の型が踏まえられている。〉祈りは短歌の大きなテーマだ。近世和歌と近代短歌の繋ぎ目にいた直文の歌に、それが出ているのは象徴的だと思った。

⑩澤村斉美「内面化される社会と、「わたし」の声」〈『にず』も『崖にて』も、「わたし」の社会での在り方を明示し、読者に伝わりやすい作りをしている。それを「わたし」の物語として私小説的に読むのでは物足りない。もちろん歌集にもよるのだが、「わたし」を主体として編まれた一冊の歌集を、短歌の旧弊として語られる「私性」を理由に批判するのは短絡に過ぎる。(…)読者はその先で、「わたし」という器の掬い取った時代の声や、人間の普遍の声を聞き取るべきだ。〉

 とても共感する。ある個人の属性を明らかにした具体的な作品が目立つ歌集を、その作者にだけの固有の私小説と読んでしまうか、その時代の声を掬い取ったものや人間に普遍の声と読むか。最初から抽象で書かれた作品より、具体に即して書かれた作品が、転じて高い象徴性を持つこともあるだろう。

⑪浅野大輝「短歌は〈わたしたち〉の文学である」聖母像ばかりならべてある美術館の出口につづく火薬庫 塚本邦雄〈この一首を読んだとき、個人的には確かに「ある美術」という箇所でいったん大きく息をつく感覚がある。さらにいえば「ある美術」のあとの一呼吸は、「聖母像」のあとの一呼吸と比べると間隔として同等かあるいはより長く感じられるのではないだろうか。〉

 全体の主旨は置いて、ここの部分に疑問符が付いた。確かに塚本が存命中はそのぐらい上句下句の切れ目は強かったかもしれないが、最近の音読は、どこも切れずにずらずらと続けることが多い。あるいは意味の切れ目に沿って「美術館の」で切って下句を字足らず風に読む人もあるだろう。浅野の提起する切れは、スタンダードとは思うものの、浅野自身がいうように「個人的」なものになりつつあるのかも知れない。

⑫永山凌平「永田和宏の旧仮名、吉川宏志の新仮名」〈結局、旧仮名にも新仮名にも矛盾はあるし、メリットもデメリットもあるのだ。よってどちらが優れているということはなくて、自身の表現したいことや文体との兼ね合いで仮名遣いを選択することになる。〉

〈吉川宏志は文語に近しい旧仮名ではなく、文語と少し距離ができる新仮名を使うことによって、口語を絶妙な隙として機能させている。「行けるなり」もそうした隙の上に成立していると思うのである。〉

 「行けるなり」は話題になった。今から考えると2005年前後が文語口語使用の境目だったのかも。永山はそれを文語口語だけでなく、仮名遣いから解明する。不思議なことだが仮名遣いに触れた論はあまり多くない。永山が言うようにどちらが優れているというものではない、作者の選択によるものだからかも知れない。仮名遣いを問題にした論は新鮮だ。

⑬私が新仮名旧仮名の話で一番眉唾だと思うのは「旧仮名の方が理解するのに時間がかかり、一首を読むのに(良い)たゆたいが生まれる」というもの。読むのにかかる時間は、完全に慣れによるものだと思う。旧仮名で教育を受けた世代は、旧仮名の方が速く読んで速く理解ができる。古い『塔』を読んでいて、旧仮名で教育を受けた世代の歌人が「最近は新仮名も、旧仮名と同じくらい速く読めるようになってきた」と書いているのを見たことがある。慣れの問題なのだ。今回読んだ論とは直接関係無いけれど、いつも思っていることなのでメモ的に書いてみた。

2021.11.1.~3.Twitterより編集再掲