僕だけが君を忘れない
それはある日突然だった。
目の前のよく見知った人物の肌に、きらめく "鱗" が現れる。そんな現象が、世界全土で突然始まったのだ。
鱗が生えた本人も見ていた他人もみんな、狼狽えた。性別、人種、年齢、病歴、それらなんの規則性もなく、たくさんの人々の"変化"がはじまった。割と早い段階でその現象はウイルスや感染といったものとは無関係であることが証明され、「いつ自分も発症するか分からない恐怖」という点においてのみ、初めて人類は平等になった。
そして現在に至るまで、そのメカニズムはほとんど何も解明されていない。けれどこの病のトリガー、あるいは種となる要因だけは、随分と時間をかけてから、見つかった。
それはふと心に湧き上がる、「生きづらさ」という感情である、らしい。
「生きづらい」。はじめは小さいその種が少しずつ大きくなっていき、いつしか自分の器から溢れると、それは涙ではなく鱗になった。ひとでいられなくなったひとたちには、鱗が生えて、重症化すると指がくっつき、そしてヒレになる。
進化論や生態系を冒涜するようなその "変化" が一体何のために起きるのか、誰にも分からなかった。
連日、とうに飽いたニュース報道が今もなお続く。
ひとでいることに疲れ果てて生きづらさを感じたとき、ひとの体は少しずつ魚へと変化していく。ゆっくり、ゆっくり、柔肌と一緒に社会への未練を手放していき、最後に鱗が全身を包んだら、海へ還っていく。
いつも笑顔だった人の腕に鱗が現れた時、みんな困惑して目を逸らした。
気楽そうに生きていた人の額に鱗が現れた時、みんな馬鹿にして笑った。
それは不可逆で、一度発症したらもう治らない。カウンセリングなどで "変化" の速度を緩めることはできるけれど、「ただの人間」に戻れることはない。生えた鱗は決してなくならない。
「ひとであること、社会で生きること」そのものに傷ついてきたすべての人が、心の傷を、もう誰にも隠すことができなくなったのだ。
人魚とは。かつて神話のなかの美しい生き物だった。
いまや人魚は「社会不適合者」たちをさす言葉であり、
人の形でいることこそ、「幸福なひとの象徴」となった。
・・・・・
なんてことのない、ありふれた夏の日。
「ああ、毎日暑くてだりぃなあ」
本当にダルそうな声色で、目を細めながら空を仰いで、真横にいる男はそういった。
潮風に揺らいだ前髪からのぞく額と目尻に、きらきらと虹色に反射する、薄氷みたいな鱗が光る。
こんなにもうだるような暑さと日差しだというのに、そいつの肌は生白くて、汗ひとつさえかいていない。
「…夏は好きだよ、アイスがうまいから」
そんな、僕の心に暗い澱みをつくる何もかもから目を逸らして、濃い影の落ちる地面を見つめる。僕だけが汗をかいていてシャツの襟もとが不快で、なるだけ小さな動作で首の汗をぬぐう。
「アイスかあ。奢ってくれるなら食べについてってやるよ」
「やだよふざけんな」
嘘だよ自分で買うから食いに行こう。そう言って、アサが笑う。“かつて“ 誰からも愛された、打算のない朗らかで美しい笑顔だった。
「俺はこれにするー」
小さな港町の、小さな売店。軒下に入ると視界の暗転にくらくらとして、目を閉じると瞼の向こうから声が聞こえる。見なくたってアサが選んだアイスがわかる。きっと、パックに口をつけて吸うタイプのバニラアイス。
「お前いつでもそれだなあ」
「好きなものはひとつあればいいんだよ。それにこれ、蓋ができるから、助かるんだ」
手に持ったアイスを伏せた目で見るアサに、僕は何も言えなくて、売店のおばあちゃんに2人分の小銭を渡して店を出た。
「ごちそうさま」
「いいよ」
みかん味の棒アイスをかじる僕を少し見つめて、そしてゆっくり自分のアイスの蓋を開けて、アサはわずかに口に含んだ。そして僕に気づかせないようそっと、静かに蓋を閉める。
______遠い昔、僕もアサも小さかった頃を思い出す。
暑い夏。2人とも汗だくになりながら駆け回った海岸の、その縁で笑うアサの笑顔は黒く日焼けて、半分こしたアイスを奪い合うみたいに、大笑いしながら食べたものだった。
幼馴染、というよりは、僕たちはずっと兄弟のようだった。
汗をかかないアサの代わりに、アイスのパッケージから結露が落ちていく。
もう、何もかもが戻ってこない。
「……ユウもさ。無理に俺といることないよ。変な目で見られるだろ」
そういったアサの顔を見ることができない。さっきの売店の、アサを見るおばあちゃんの目を思い出す。
僕は怒っている。アサにじゃない。誰に対してなのかわからない怒りを鎮めることができなくて、こんな顔でアサを見つめ返せない。
「僕がつるむ相手は僕が決める」
「はは。お前は優しいよ。昔から」
アサがへらっと笑う。
「……でもさ。もう俺も、いつまでここにいられるのかわからねえし。今だって “ひとの真似事” してるだけでさ。なんか違うなって、ずっとわかってるんだ」
アサの掌の中で、消費されなかったアイスが溶けていく。指に並んだ虹色の鱗を、結露が濡らしていく。止め方のわからない涙が、どれだけ眉間に皺を作っても流れていく。僕がどれだけ泣いたってアサは困ったみたいに笑うだけで、それがもう一度悔しくて、棒アイスが溶けて地面に落ちるまで、僕は子どものようにわんわん泣いた。
どうしてあんなにもみんなから愛されたアサが、いつか海に還ってしまうのだろう。
どうしてみんなはあんな顔で、アサを見るのだろう。
「ごめんな」
何にも悪くないアサが謝るのを聞いて、こんなに喉と心臓が痛いのに、どうして僕には鱗のひとつも、生えてこないのだろう。
僕には、何もわからない。
だからお前のことも、見送ることしかできないのだろうか。
2.
「お前は、生きづらかったのか?」
聞いたってどうしようもないことを、それでも口にしてしまう。最初の鱗が生える前に、聞かなくてはいけなかったのだ。子供のころからいつだってころころと笑っていたアサの、こころの内側がそうではなかったことに、気づかなくてはいけなかったのだ。
なのにいまさら。自分がおかした取り戻しようのない失敗を、諦めきれないで。
「…生きるのが難しいと思ったことはないよ。俺は恵まれていたし。でも、どんなことがあっても、なあんにも感じない日が、増えてきたんだ。それって、にんげんらしくないだろ。だから人の姿でいさせてもらえないんだよ、きっと。
でもさあ。」
「お前と馬鹿をやってる時間のことを、惜しく思う。だから、なるだけゆっくり、魚になるよ」
鱗があっても、ヒレがあっても、ひとの形じゃなくなっても、アサはアサだった。僕にとって唯一の、親友であり兄弟だった。
世界は、こころの傷が丸見えになったヒトたちの居場所を作ったりしない。町の人たちもテレビに出ている人たちも、みんな「人魚たちは、それでいいんだ」と言うのだ。僕は嫌なのに。それじゃ絶対に嫌なのに。
夕方のニュースの中継で、どこの誰ともしれない ”人魚” が沖へ向かいゆっくりと、波間に消えてゆく。
その一度も振り返らない背中を見て、まるで「大昔に地上にあがってヒトになったことは、失敗だった」と言っているような気がした。
彼らの変化を「退化だ」というひとがいる。でも僕にはそれが、「こころの平穏をめざすための進化」に思えてならない。
昼間のアサの言葉がぐるぐると回って、寝付けないでいる零時半。シーツの波間に横になって、想像してみる。
明日になったら、アサは人魚になっているかもしれない。
明日になったら、アサは海へ還っていくかもしれない。
アサがいない世界は?
アサがいなくなったことを気にも留めずに、廻っている世界は?
目を開ける。天井を微かに照らす街灯の明かり。
アサは進化して、こんなにもつまらない世界から、旅立つんだな。
だからどこまでもつまらない僕には、引き留めることができないのだ。
朝がくるのを待ちきれないで、まだ微睡む町を歩く。「人が人魚になって海に還っていく」という現象が起きるようになってから、仕事以外で海へ近づく者はいなくなった。とりわけ、まだ薄暗いこんな時間には。
僕はそんな朝夕に、海を眺めるのが好きだ。アサにはただ「綺麗だから」といっていたけど、”アサが還ろうとしている場所” が本当に素敵な場所なのか、僕は確かめようとしているのだと思う。
朝日が海の下で目覚めかけている。水平線の際が黄色く揺らめく。朝の気配を感じた波たちがさざめく。夜のとばりが静々とあがっていく。薄らかになった星々が宇宙へ帰っていく。
綺麗なばしょだなあ。
安直な幼い感想しかでてこないけど、きっとそれでいいのだ。余分なこと何ひとつない、ただ綺麗な、そんな場所にアサはいつか還っていこうとしている。弱い人たちが海へ逃げていくんじゃない。きっと鈍感な僕たちが、置いていかれているのだ。
きっと大丈夫だ。アサはきっと大丈夫。
あいつはいつも明るくて大きくて、みんなの中心にいた。なにもかも大したことないって笑って、なんでもこなす奴だった。
だからきっと海の底でも、楽しくやるのだろう。アサはきっと。
_____じゃあ、アサがいなくなったら、僕はどうなのだろう。こうやって膝に埋めた顔のあげ方すらわからないで、蹲って白んでいく地面を見つめるしかできない僕は。
神様、僕はぜんぜん大丈夫なんかじゃないんだ。アサと一緒にいたいのに叶わないなら、僕も魚にかえてください。
つぎつぎ涙が頬を伝って口へ入ってくるのが鬱陶しい。泣いたとき、涙が海とおんなじ味がするのは、存外みんな、海に還りたいからなんじゃないのか。ほんとはみんな、ひとでいるのは苦しいって、思ってるんじゃないのか。
3.
アサはあの日から学校に来なくなった。いつも周りに人が溢れていたアサの机は伽藍洞になって、誰もアサの名前を出さなくなった。アサと仲の良かった僕を見る目も、遠慮がちな、そして好奇心に満ちたものに変わった。もしかしたら、親友を失ってもあいつには鱗のひとつも生えてこないんだな、と思われているのかもしれない。
僕がアサをかけがえのないものだと思う心は、鱗の枚数なんかでは測れない。だから、別にどうだってよかった。
仲の良かった親同士さえ、気を遣ってか全くアサの話題を出したりしない。はじめから居なかったみたいに、アサの存在は消えてしまった。それが一番、僕にとって哀しいことだった。それもアサにとってはどうでもいいのかもしれない。だって、こんな世界のことを一番よく知っていて、だから居なくなってしまいたかったのだ、アサたちは。
雨が降らない日にだけは毎日朝夕と海を眺めに行く日々の、季節は夏から秋になった。僕は、電話をかけても家によっても出てこないアサを探していた。もし、海に還る瞬間に立ち会えたなら。魚にかわってしまったアサを見たならきっと、僕にも鱗が生えてくると思ったから。
けど、そうだよな。そんなうまくいくはずがないのだ。
ほら。やっと、やっと会えたのに、虹色の鱗に包まれたアサの掌に撫でられたって、変化が進み切っていても久々に見たアサの笑顔がなんにも変わっていなくたって、息ができないほど涙があふれて苦しくたって、僕の肌は何も変わったりなんか、してくれないのだ。
「ひさしぶりだなあ、ユウ、元気にしてたか」
そんな、普段のあいさつみたいに言うな。僕のほうがどれだけ心配したと思ってるんだ
「もう明日はにんげんでいられないから、今日、還ることにしたんだ。」
なんで隠れてたんだ。僕と馬鹿をやるためにゆっくり魚になるって言ったじゃないか
「この浜にはお前がいると思ったから、別の場所から還ろうと思ったんだけど」
そうだよ。ずっとお前を探してたんだ
「やっぱりここからにしようって。ごめんな」
ごめんてなんだ。お前はいつも悪くなかったのに
アサの掌や指は、薄氷みたいな鱗が並んでいて、秋の冷たい風に時折ひらと揺れる。キン、キン、とそれぞれがぶつかってごく小さく鳴く。僕の頭の上でその音が降ってくる。ずいぶん傾いだ細い月が、鱗の表面に虹をつくる。海がさざめく。白い波が昏く溶けていく。
久しぶりに僕たちがいっしょにいることを許された最後の夜と、もうすっかり人魚になったアサは、とても、とても綺麗だった。
「朝が来たら、いくよ」
「 うん」
「俺が言うのもなんだけどさ、ユウは、陸で手に入る幸せ全部つかんで、毎日笑って過ごしてくれ」
「…約束はできないよ。ここはお前が見切りをつけた世界だろ」
「はは、そうだよなあ」
笑って頭に手をやるアサの髪は灰色で、白い顔にもたくさんの鱗。硝子みたいな眼に、僕たちへ何度も寄せる波が映り込んでいる。夜よ明けてくれるな、と願う僕の頭の中が読めてるみたいに、アサは太陽の気配がする水平線を見ている。
空と海の境界が黄色くにじむ。終わりを察した優しい夜が身を引いていく。
「ユウ、世界は薄情だしつらいこともたくさんあるけどさ。そんなに悪いとこじゃないはずだ。
俺が先に海の底で待ってるから、なんにも怖がらず、恐れず幸せをつかめ」
「アサ」
「何もかも試してみてお前がこの世界に飽きたら、また馬鹿をやろう。今度は海の中で」
だからなるだけ、ゆっくり来い。
そう言って笑ったアサの顔は、やっぱりどう見たってアサだった。生まれたころから僕の親友であり兄弟の、たったひとりのアサだった。
アサ。アサ。
呼ぼうとするのに喉がぎゅうと締まって声が出ない。紺色の空も黄色い太陽も真白の海も、そしてゆっくり波間へ歩を進めるアサの背中も、涙で滲んで溶け合ってぐちゃぐちゃだった。その滲みの中からアサを探し出して引き留めたい気持ちが体を動かそうとする。でもこの涙をぬぐったとき、明瞭になった視界のきっとどこにも、アサはいないのだ。だから拭うこともせずにただ、水没したみたいな朝焼けを見ていた。
美しい夜が終わってしまった。あまりに綺麗な朝焼けにあやされながら。
___ひととはなんだろう。人間らしい定義とはなんだろう。
ひとが棲む世界とはなんだろう。こころの傷が癒える場所ってどこだろう。
なんにも分からないから、僕はこうして、海へ還った親友をただ見送った。”にんげんらしく” 生きていたら、いつか僕にもわかるのだろうか。
アサを失った理由がどこかに隠れているのなら、僕はそれを探そう。そしてなにもかも分かった気になったら、アサに会いに行こう、答えを持って。
海鳥たちが起きてくるまで、僕はずっと滲んだ朝日を眺めていた。『なんにも怖がるな、なるだけゆっくり来い』
波の音の隙間から何度も何度も、アサの声が聴こえる。
陸のにんげんたちは、海へ還ったみんなを忘れてしまった。
海の人魚たちも、きっと陸のにんげんたちを忘れるのだろう。
僕は忘れない。僕だけが、アサを忘れない。
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