冒険譚のラストシーンにて
あらすじ
竜は、植物であった。陽の光で躰を洗い、雨で喉を潤し、風で腹を満たし、食物連鎖のどこにも括られず、欲がなく、たいした思考もせず呼吸し、牙と巨躯と翼とをもつ、ただの巨木も同然だった。
___人間たちに棲み処を荒らされて最後のいっぴきとなった竜。永すぎる命に苦悩する竜は、ある男との出会いで「植物ではない何者か」に、なろうとしている。
冒険譚のラストシーンにて
_____ 確かめるような、祈るような気持ちで目を開く。そこに広がっているのは幻想的な夢の中とは比べようもないほど、色褪せた自然の広がる山の景色。
取るに足りない、でも取り戻しようのない日々の夢を、わたしは数え切れぬほど繰り返し見ている。夢から現実に戻ってくる時、何も変わらないようでいて緩やかに全てが変わってしまった世界に、毎回浅く絶望しながら。
淋しいことだ。こんな感傷ですら以前は感じることもなかったのに。わたしもどうしようもなく変わってしまったのだ。もう何も考えないでおこうと、再び目を閉じた。
「おはよう」
その小さな声で白昼夢の真ん中を柔らかく裂いて、いつもいつもその声の主は、わたしの微睡に割って入った。
「起きているなら、おはようと言われたらおはようと返すんだ。竜の世界では違ったのか?」
知るか。目も開けずに首元の鱗をすこし逆立てる。もう数百年も前に喪われた竜の世界に、そんな気色の悪い道理はない。もちろんこいつのような可笑しな輩もいなかった。
「100日ぶりに来たんだ。元気にしてたか」
100日なんてわたしにとってはまばたきのような間だった。わたしはいつも眠たくて、だというのに夢を見始めるころになればすぐ、いつもこの男はやってきた。元気なんかじゃないお前のせいだ、と薄目をあけて睨むと、阿呆な顔で嬉しそうにするのが見えたのですぐに瞼を閉じる。表情まで五月蠅いだなんて、なんてやつだろう。
ぎしぎしと躰を軋ませながら首を持ち上げる。夢で見たのと、同じ場所で。しかし此処にはもう空気に満ちる光の粒はない。朝露に濡れる樹々にも、神聖はもう宿っていない。起き上がり首を伸ばすことすら億劫で、やがて再び顎を地面に戻すことになった。
△△△
(阿呆らしくなってきた。何故いつまでたっても人間の冒険ごっこのラストシーンに、つきあわねばならんのだ)
齢数千年のこの命の中で、ようやっとそういう心持ちになったのは、百年ほど前のことだった。永久にも思えるような命を持つ竜の最後のいっぴきだったわたしを、人間は”世界最後の邪神”や”最悪の怪物”と呼んだ。いつ腹を空かせて人間を食い殺しにやってくるかと恐れていたらしい。心底馬鹿だなあと思った。いったいどこに、生臭い肉を喰らう竜がいるだろう。
竜は謂わば植物だった。大地に根を張ることなく、空高くさえ枝を伸ばせる植物だった。陽の光で躰を洗い、雨で喉を潤し、風で腹を満たし、食物連鎖のどこにも括られず、欲がなく、たいした思考もせず世界で呼吸し、牙と巨躯と翼とをもつ、ただの巨木も同然だった。
なにが「いつの日か人を襲う」だ。世界の神聖を弱らせて、竜を絶えさせたのはお前たちの方だというのに。
わたしは最後のいっぴきだった。だから何百年も、人間としか関わることがなかった。それも「討伐」の瞬間にだけ。剣で風は斬れないし、弓矢で太陽は射抜けないのと同じで、彼らが持ち寄る玩具のような武器のなにもかもが竜には無意味だった。やってくる人間たちの骨折り損をぼうっと見つめて、飽きた頃さいごにひと鳴きすれば、奴らはばたばたと帰っていく。毎回それだけのことだったけれど、何百回とそれを繰り返されてわたしは苛々としていた。わたしはただただ眠たくて、眠りを邪魔されることが我慢ならなかった。仲間と空気のように生きていた頃は気分が波立つことなどなかったのに。人間たちに付き合っているうち「苛立ち」という感情を覚えてしまったことにも、わたしは心底腹がたっていた。
わたしはうんざりしていた。大義を掲げてやってきた勇者の一団。名を残すため挑んできた武闘家。一儲けを夢見た山賊。そんな奴らを「嚙み殺してやりたい」などと、人間のようによこしまな心が湧いてしまうその前に。
わたしははやくこの「冒険譚のラストシーン」という、茶番劇から降板したかった。雨や風や光を鱗にうけて眠る、ひそやかなただの植物に、戻りたかったのだ。
「お前が邪神と言うのは、本当なのか」
1年前のある時。またしても微睡みを邪魔されて、ひどく苛ついたわたしが開いた瞼のその先に、驚くほどの軽装で立っていたのがこの男だった。
煤で汚れたシャツとズボンによれた皮のブーツを履いて、何の武器も持たずに、わたしの鼻先数メートルの位置でこちらを見ている。鉄と火と灰の匂いがする。鍛冶職人だろうか。仕事場からふらっと散歩に来たような風体のそいつを、わたしは意表を突かれたような心地で見ていた。
「ひとの言葉はわからないのかな。みんなお前のことを最悪の怪物だというんだ。俺ら、なにもされたことがないのに。本当に、俺や町のみんなを、いつか丸のみにしたりするのか」
あきれるまでに変わったやつだな。きっと人の世界でも周りに馴染んでいないに違いなかった。
わたしは沈黙しながら男を睨みつけている。にんげんとは、勝手で、小さく非力なくせに群れれば気が大きくなって、欲しがるばかりの野蛮な生き物だ。これまでの無数の無礼が思い出されて、首筋がちりちりと熱くなる。
______ああ駄目だ。
また苛立ちに支配されそうになって、わたしは頭の中の波を鎮めようと躍起になる。口からわずかに息を漏らすと、男は怯えるでもなく目を輝かせた。…だから、なんだと言うのだその反応は。
「…俺の言葉が、わかるか?」
言語を理解することは簡単だったが、人間と意思疎通をするつもりは毛頭なかった。攻撃する意思はなさそうだったので無視して眠ろうと思ったのだが。
しかし。閉じかけた瞼を浅く開いて男を再び見れば、なにやらじりじりと近付いてきているような気がするのだ。しまいにはまるで犬や猫のように、わたしを撫でてみようなどと考えているような気さえして、ほうっておくわけにはいかなくなる。
ああ鬱陶しい!
こんなに扱いづらい状況になったのは初めてのことで、わたしは多少困惑する。
そしてなにより、武器も持たずわたしと会話を試みようとするこの男のことを追い返してしまえば、わたしは喉に異物がつっかえたような最悪の心地をずっと味わう羽目になるような気がしていた。
”………だれが お前たちのような 生臭いのを 喰うか”
ひとの言語は動物のものに比べればとても簡単で、討伐隊の会話を何百回も聞けば学習できた。それでも発語するのは初めてで、わたしはザラザラとした音で男に返答する。その音は暴風のようになって男にふき付けて、男の髪や服をばたばたと騒がせた。
男は心底びっくりしたような顔をしたがそれが災いして、風に舞った土埃が見事に、阿呆面の目にも口にも侵入したようだった。目を擦りながら咳き込む男を、わたしは毒気をぬかれて観察している。本当に何をしに来たのだ、この間抜けな男は。
ああ、ああ痛い!しばらくそう叫びながらもぞもぞとしていた男を、律儀にも私は数分かけて待った。男はようやっと落ち着きながら、涙目で私を見つめる。
「なんだ、ちゃんと会話もできるし、獣のように暴れたりしないじゃないか!俺みたいな簡単に仕留められる獲物を、食べようともしない。
それに、なんて、なんて綺麗なんだ」
男は意外にもただの阿呆ではないようだった。なにより、わたしを恐れなかった。きれいだなどと言われるのは気色が悪くて眉間にしわを寄せたが、わたしの表情の些細な機微にも男はすぐに気が付く。
「すまない気分を悪くしたか。うまく言えないけど、お前はすごく美しいものだから。
答えてくれてありがとう。俺は街に帰ってみんなに、お前は無害だと話すよ」
いいや前言撤回しよう。こいつは阿呆だ。
”……何百回と人間たちが討伐にやってきた、一昨日もだ。心底わたしがいつか人間を滅ぼすと、信じている。間抜けなお前の言うことなんか誰が信じるか。だからやめておけ”
男は再び目を丸くしてから、にこ!と突然破顔した。
「生まれたころから怪物の話を数えきれないくらい聞かされていたけど納得いかなくて、今日会いにきたんだ。怪物は聡くて美しかったと、言うだけ言うさ、真実だから。
俺はもう家族もいないし、町のみんなからも煙たがられているからいいんだ。
心配してくれて、ありがとう」
なんて頭の痛くなる純朴な木偶だ。
男は深々と礼をよこした後、「さようなら、うつくしい竜」とだけ言って背を向け、ご機嫌な足取りで歩いていった。
”まて”
溜息まじりに呼び止めたことは、自分自身が意外だった。これまで散々迷惑させられていた人間相手に。でもわたしは、後悔することになるかもしれない事を十分承知しながらこう言ったのだ。
”この鱗を持っていけ。そして 「竜は俺が倒した 」 と、そう言え”
この男以外に、わたしの茶番劇を終わらせられる者はいないだろうという確信を持ちながら。
△△△
あの日困惑する男を言いくるめて、男の顔よりも大きな、脇腹の鱗を引き抜かせ持たせた。わたしの鋼鉄のようでいて薄氷にも似た鱗は男の柔肌にいくつもの細い裂傷を作ったけれど、男は眉を限界まで下げながら「鱗を抜いたところは痛くないのか」と聞く始末だった。
何度目かわからないほど頭が痛くなったが、”お前より酷い怪我に見えるか?”と返して、男の背を鼻先で押す。頼むから街の者を騙す時、その純朴さを出してくるなよ。そう唸りながら。
そして。男は純朴であるからして私との約束をちゃんと守り、その日「英雄となった」。
街の者は訝しんだだろうけど、竜の大きな鱗はその男しか持ち帰ったことなどなかったし、「お伽噺でもよくあるよね。正直者にしか倒せなかった系のやつだったのかなあ」と、なんとも都合よく納得するしかなかったようだった。
数十日後その報告へ男がやってきた時、わたしは相変わらず眠くて不機嫌だったけれど、男のテカテカしている “勇者然“ とした一丁羅やピカピカしている背中の剣が全く似合っていないことが心底可笑しくて、捲き起こした暴風で木々を揺らしながら笑ったのだった。功績を讃えて服は街の長から、剣は国王から賜ったものらしかった。男は顔を真っ赤にして眉を下げるものだから私の笑いは止まらず、その日山の下では嵐が起きていたらしかった。こんなことは、数千年生きてきた日々の中で初めてのことだった。
△△△
「お前と出会ってからもう、1年が経つなあ」
わたしがこの男に “討伐されて” から一年経って、一丁羅をもじもじと着せられていた男は、もう随分とその服を着こなしていた。元が鍛治職人なだけあって剣の扱いもそこらの男たちと見劣りしなかったし、そしてその剣はいつも研ぎ澄まされていた。
「聞こえるか。山のしたで鳴っている音楽。街で記念祭が行われているんだ。一年前 “竜が居なくなったこの日” を祝って」
やけに、ラッパの賑やかで間抜けな音が木霊してくると思った。そうかあれは、“わたしの死”を祝う音楽であったか。
苛立ちはなかった。ようやっと、あの茶番劇から降りられたのだという実感が私を満たした。音楽隊のリズムや音色が風にひずんでいる。悪くない気分だった。
「数ヶ月に一度 “竜が復活していないか” 、俺が1人で確認にいくって、決まりを作ったんだ。さっきも盛大に送り出されてきた」
男は地面にそのまま腰を落として、草を撫でながら遠い喧騒を聞いている。人間と隣り合って過ごすことなど一年前には考えられなかった状況だが、わたしはこの男と過ごす時間が嫌いではなかった。このまま眠ってしまいたい心地ではあるが。
だが問うてやらねばなるまい。わたしと人間たちにとっての、この功労者に。
“ なぜ浮かない顔をしている。お前を讃える歌も聞こえてくるじゃないか “
わたしへのやけに賑やかな鎮魂歌と、勇者を讃える歌が交互にここへ届く。やっと堂々と振る舞えるようになったのだから、晴れやかな顔をすればいいのだ。だというのに男は、初めて私の鱗を引っこ抜いた時のような顔をして、遥か遠くから聞こえる音楽を聴いている。
そういえば、「街の長の娘を嫁にもらうことになった」と、そう報告してきた時も同じような様子であった。まあ大体の予想はつく。
“嘘をついて祭り上げられていることにも、わたしが死んだとされることにも” 後ろめたさがあるに違いなかった。この男は一等、残酷なほどに純朴であったから。
" 呆れた男だ、わたしが頼んでお前に“殺された”というのに。胸を張って勇者として振る舞え。この嘘がわたしと人間たちの平穏を守っているのだから "
ヘマをするなよ、といつかのように唸れば、やっと男は眉を下げたまま笑って「任せてくれ」と言った。ひずんで掠れた音楽が、死んだわたしと生まれ変わった男に鳴り響く。わたしは目を閉じて眠りに落ちた。ここ数百年で、一番穏やかな心地の眠りであった。
△△△
___竜は、植物であった。
世界の神聖から生じ山の上で目醒め、陽と雨と風によって生かされ、大した思考をせず眠り、自ら殖えることはない。だから長い年月を掛けて人間たちが栄え、山が拓かれ森が失われ空や海が濁ったとき、自然界からいちばん最初にいなくなるのは、永久の命をもつはずの竜たちだった。消えてゆく竜たちには怒りも哀しみもない。彼らはただそこにある大樹のようなものだったから。
でも、たった独り遺されたわたしだけが、たった独りで思考するしかなかったわたしだけが、そうではなかった。植物ではなくなってしまった。だから自然が侵されて神聖が弱まりきったって、独り生き永らえてしまったのだ。何のために生まれてきたのだろう。何のために数千年も生きるのだろう。思考を止められず植物に戻れないわたしは、はやく何もかもを終えてしまいたくて、ずっと眠っていたかった。
一度識ってしまった感情は、手放すことはできないとわかっている。
喪われた仲間たちへの追慕。残されたことへの寂寞。わたしの眠りを妨げたものたちへの憤りや殺意。そして、孤独。
孤独はもっとも恐ろしい感情だった。夜の帷や、朝の陽光、木々のざわめきさえ苦痛に変える。孤独を知りながら生きていくには、わたしの命は永すぎたのだ。夢の中の過去へと逃げ込みたくなるほどに。
△△△
「子が!子が生まれたんだ!」
煌々とオレンジ色に空が焼けた早朝に、朝露に濡れた山肌になんども足を滑らせながら、男が転がり込んできた。一晩寝ずに居たのだとすぐにわかる隈を目の下に携えて、真っ赤にした頬を震わせて、男が叫ぶ。
「女のこだった、げんきな、女のこ」
切らせた息が限界で、それだけ言ってその場にへたり込む男の上下する背中を、わたしは不思議な心地で見ている。あの日ただ純朴さがだけが取りえだった木偶が、子の親になったのかと。
そういえば。男の背中はずいぶんと逞しく大きくなった。わたしは知っている。「嘘」で出来上がった英雄だから、すこしでも「本当」になれるよう、毎日鍛錬を欠かさないこと。以前は相手にもされなかった街の者たちへ、今まで以上に尽くしていること。除け者のように自分を扱ってきた街の治安維持へ、毎日努めていること。結ばれた街の長の娘には、自分は英雄なんかじゃないと打ち明けたこと。それを含めて愛してくれたこと。
大きな嘘と、国や街、そして妻を背負う背中。これからはもうひとつ命を背負っていく背中。
この気持ちを何というのか、数千年生きていても理解できない。ただひとこと口から洩れたのは "そうか" だった。心からなにかが染み出そうとしているのに、わたしはそれを言語化できない。
男はぼろぼろと泣きながら顔を上げる。
「あの子は、お前が俺に授けてくれた。お前のおかげだ。こんな、何にも無かった俺に、愛する妻も子も、ありがとう、ありがとう…」
わんわんと地面に突っ伏して男は泣いた。
“英雄になって“人の前で情けなく泣くことすらできなくなったから、こうしてわたしのところへ走ってきたのだろう。
太陽が稜線からすっかり顔を出すまで、英雄は泣いていた。
やがて目を真っ赤にしながら妻と子のもとへ帰るとき、「お前にあの子の名前をつけてほしい」と男は無茶なことを言って、また走って去っていったのだった。
その日は一晩中、わたしは生まれて初めて眠りもせずに、首を伸ばして夜の空を見つめていた。真っ黒な空にさまざまな色や大きさの星が散らばって、拍動しているのかと思うほどに、それらがちかちかと瞬いている。
星を最後に見上げたのはいつだっただろう。こんなにも美しかっただろうか?不思議な心地になりながら、わたしは大昔に仲間から教わった、竜の中に伝わる神話を思い出す。
男の言葉がいつまでも胸の中に反響していた。わたしがあの男に授けたと。その儚く小さな命を。
麻痺してしまうほどにわたしの命は永すぎたから、誕生した命に対して尊いと感じたことに、自分自身で驚いていた。男の嬉しそうな顔。数えきれないほど落とした涙。きっとあっという間に終わってしまう命だから、あんなにも男の一瞬一瞬が眩しく見えるのだろうか。羨ましいと、そう思った。
_____ わたしは名付けに5日間悩み続けた。そして竜の中に伝わる一番古い神話に出てくる、「竜を産み落とした星」を意味する言葉を贈った。
その言葉は人間には発音できないようで、わたしの発音を真剣な顔で聞き取った男が、最も近い発音である「ファリア」と、そう決めた。
「竜を殺した男」の子供につけるには、いささか皮肉だろうかとも考えたが。この純朴で誠実な男の元に生まれた子供に、わたしの母たる星の名前を贈ることは相応しい気がして、わたしは満足だった。
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