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おばけのはなし

夏が終わる。夏は暑くて眩しくて生きているだけで大変だから、秋がやって来ることがうれしい。でも夏らしいことは今年もあまりできなかったので、未練がましく「怖いはなし」でも、書いてみようかと思う。

霊感はまったくない。でもなぜか夏には、古い我が家の中で、不思議なものを見ることがあった。その、おばけのはなし。
(本当に体験したことなのでオチなど無くてあんまり怖くない)



窓の外

中学生のとき。自室で夏休みの宿題をしていた。2階にある12畳の部屋を姉と一緒につかっていて、部屋の角と角に、わたしと姉の勉強机があった。姉は友達と出かけていて、ひとりで集中しながら机に向かっていた。
目の前は壁。右側には、裏山と鯉の泳ぐ池が見える窓。わたしは自然光だけの明るすぎない部屋にいるのが好きなので、部屋の電気はつけていない。夏の昼下がりの外は凶暴なまでにぎらぎらと明るくて、部屋の中は薄暗く感じるほどだった。蝉の声が幾つも幾つも窓をたたいているけど、勢いに乗ってきた宿題を片付けている作業が楽しくて、気にならない。

今でも覚えている。右手のシャーペンが走るテキストの、右側のページ2行目。猫背気味にその部分を注視しながら、視界の一番右端には窓があった。白くぼやけるほどに明るい窓。

その窓枠の一番下に、「黒々とした髪の毛がはえた頭頂部」があった。

なんだあれ。視界の一番端っこにそれを見つけて、体が固まった。視線は相変わらずテキストの2行目。…カラスかな。カラスでしょ?そう思うのに、なかなか目や首を動かせない。その黒くて丸いなにかも、ずっとそこにあって動かない。

たぶん5秒くらい硬直して、跳ねている心臓が苦しくなってくる。錆びついた機械みたいに、ぎこちなく首を少しずつ、窓へ向ける。

それはやっぱりどう見ても、「子供の頭頂部」だった。真っ黒でまっすぐなその髪が、夏の日差しで艶々と光っている。「男の子」だと思った。耳のあたりまでの髪の毛の男の子。相変わらず頭頂部しか見えないのに、なぜかその時そう思った。

本当に、スローモーションみたいにゆっくりと首を向ける。その5秒くらいの間、「彼」も私と同じスピードで、ゆっくりと窓枠の下へと隠れていった。首が90度横を向いて正面から窓を見たとき、ちょうど黒光りする頭頂部が、窓枠の下へ消えていくところだった。

首を真横に向けた姿でまた硬直して動けない。ただ処理しきれなかっただけで、金縛りとかではない。蝉の声もちゃんとしてる。でもその「頭」はただただ静かに全く音もなく、”垂直に” 窓枠の下に隠れていった。

わたしの真横にあるこの窓の外には、幅の狭いベランダがあった。窓枠の下部から、50cmくらいの位置に。年季の入ったそのベランダは雨曝しのせいで錆びついてボロボロで、危ないからだれも使わない。

ベランダに誰かいるのだろうか。寝ころべば、この窓から隠れることは出来るかもしれない。

心臓が痛い。でも確かめずにいるのはもっと怖い。スローモーションで椅子から立ちあがる。中腰のまま窓へ近づく。

ほんとうに?垂直に頭が下がっていって、50cm下のベランダに寝ころべる?そもそも50cm下のベランダにいて、どうやったら頭頂部だけ見える?あんなにボロボロで穴だらけのベランダに?子どもが一人で?

いろんな考えが頭をよぎりながら数秒かけて、窓へ顔を寄せる。額がガラスへ触れるほどまでくる。

夏の太陽が照らす赤茶けたベランダのどこにも、庭にさえ、男の子はいなかった。


おばけというのは、何もせず、音さえ立てずに、すぐ近くにいるものなのかもしれないと思った。そして、「陽の光は怖いものから護ってくれる」という、幼いころ私が信じて疑わなかった神話めいたものが、永遠に死んでしまった出来事だった。



待っていてね

小学生の頃。93歳で亡くなった大ばあちゃんが、その時はまだ元気だった。でも足が悪かったから、自分の部屋のベッドで座っているか寝ていることが多くて、トイレなどに移動するときは家の中でも杖をついて、一歩一歩ゆっくりと時間をかけて向かっていた。

大ばあちゃんの部屋の横の、でも壁があって全く大ばあちゃんが見えない位置に食卓があって、わたしと姉と父母の4人で夕食を食べていた。テレビを見ながら、楽しい空気だった。食事中にトイレに行きたくなって、席を立ってトイレに向かった。

とにかく古い日本家屋(馬屋の跡地なんかもあった)は廊下が長く、そして暗い。あるくだけで大きく軋んで音が出るこの暗い廊下が当時とにかく恐ろしくて、夜は特に大嫌いだった。でも夏だから各所の扉は開け放されていて、向こうの食卓から楽し気な声が聞こえてくる。だから大丈夫、と言い聞かせて、トイレに進む。

廊下やトイレ前の空間は暗い。でもトイレの扉についている、「中に明かりがついているかを確認する小さな窓」には明かりがついていた。

中に誰かいるのかな。消し忘れかもしれない。少し不安になりながら「なか、だれかいる?」と声をかける。

「はいってるよ」

トイレの引き戸の奥から、女の人の声でそう聞こえた。わたしはそれを大ばあちゃんの声だと思った。暗い廊下の中にいる自分は、扉一枚挟んでトイレに家族がいることに少しほっとした。

「いまでるから、そこで待っててね」

「わかった!ゆっくりでいいよ!」大ばあちゃんは耳も遠い。扉越しでも聞こえるように、わたしは大きな声で返事をして、廊下の壁に寄りかかった。

すると、食卓の方から姉や母がけらけらと笑う声が聞こえてくる。テレビが面白いのかな。そちらが気になるし、大ばあちゃんは動きがゆっくりなのできっと時間がかかるだろうから、食卓で大ばあちゃんが戻ってくるのを待っていようと思った。

「うち向こうで待ってるから気にしないでね!」また大声で声をかけて背を向けた。トイレからの返事はなかった。


「楽しそうに笑ってたねえ、何が面白かったん?」
食卓に戻ってそう聞いたら、姉が私の顔を見てまた笑った。
「あきら、廊下の奥でひとりで大声でしゃべってるから、へんで面白かった」

むっとして、「ひとりじゃないよ、大ばあちゃんがトイレ入ってたから話してただけ」と返す。そしたら母が不思議そうな顔をして、「大ばあちゃん部屋にいるよ」と言った。

え。ゆっくり大ばあちゃんの部屋に向かうと、大ばあちゃんはベッドの上で、母が切り分けたメロンを食べているところだった。大ばあちゃんは私に気づいて、「あきらちゃんどうした。ご飯食べたんか?」と聞いた。

振り返る。開け放した襖から真っ暗の廊下が見えて、その奥のトイレの扉窓から、光が漏れている。あれからいちども、扉があいた音も廊下が軋む音もしていない。


走って母に抱き着く。ご飯中だよ、とわたしを叱る母に、「さっきまでトイレに誰かいた、会話した」と言うと、怖がりの母は一緒になって怖がってくれた。当時はじいちゃんばあちゃんも家にいて、その2人のどちらかじゃないか、という父についてきてもらう。
父の背に隠れながらトイレに向かう。窓は光っている。父が扉をノックして、声をかけるがなにも返事はない。

ゆっくりとあけた扉の先には、誰もいなかった。


「いまでるから、そこで待っててね」
明瞭にわたしに話しかけてきた家族以外の誰かの声を、ずっといまでも忘れられない。あの時待っていたら何が出てきたのか、何が起きたのか。いまでも夜の廊下とトイレが苦手になってしまったきっかけの出来事。





という、強く印象に残っている2つの思い出。
いまでも私の苦手意識にふかく影響している出来事なのだけど、不思議と心霊体験だとは思っていない。なんだか、窓からとびこんできてしまったコウモリに遭遇したり、夜の窓に這うヤモリだとかを見たときみたいな、イレギュラーだけど自然的な何かに触れたときみたいな感覚だった。(いや、本当に、気が狂うくらい怖かったのだけど)

意志や悪意があってはっきりと人間に干渉してくるものを「悪霊」だとか「幽霊」とかというのなら、わたしが出会ったものたちはもっと微かな名もなき何かのように感じる。
それって、「生きている人」の世界のなかに、そっとまぎれているようなものなのだろうか。それとも、「そういうもの」たちの世界で「生きてる人」たちが過ごしているんだろうか。


そんなことを毎年思う、夏の終わり。


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