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あなたとみた春を想いだせない

「忘れる」とは、生きていく上で必要な機能だ。

一年前の今日何を買ったとか、先週の金曜日のTO DOリストとか、昨日通勤路ですれ違った人の服の色とか。そんな些細なものごとを覚えていられるほど、私たちの脳みそにはスペースがないらしい。

積み重なっていく日常には、忘れていいことのほうが、たぶん多い。だから、重要なメモリーの保管場所を確保するために、些細なものごとは「忘れる」のだ。

今までにこの目がみてきた色は、一体どのくらいあるのだろう?この肌が感じてきた風の種類は?この口から飛び立った言葉の数は?この心が覚えてきた感情の手触りは?

私たちが覚えていることは、自分が思うよりも、たぶんずっと少ない。



冬の終わりを告げるように、暖かい日差しに導かれて、髪を逆立てるような風が吹いている。薄手のシャツではまだちょっと寒い、朝の空気。

この人生、忘れたいことも多いが、忘れたくないことも多い。

この文章を読んでいるあなたも、「忘れたくない想い」を抱えているのだろうか。あるとすれば、それはどんな色で、どんな形で、どんな匂いで、どんな手触りなのだろうか。

私にとって忘れたくないことといえば、四年前に亡くなった「母」の存在だ。

母は裁縫や編み物が大の得意だった。ある年には「パパが還暦を迎える!」と張り切って、毎日毎日、せっせと真っ赤なセーターを編んでいた。

ひとつのこたつに二人で潜り込んで、足を蹴りあって遊んだ。ストーブの灯油が切れると、どちらが寒い寒い外へ灯油を補給しに行くか、じゃんけんをした。

家族でディズニーランドに行った。母はディズニーツムツムのイラストがいっぱいに描かれた半袖のTシャツを着て、イッツ・ア・スモールワールドに乗りたいとはしゃいでいた。

すべてはどうということのない、どこにでもあるような記憶。


でも私は、母とみた「春」を想いだせない。


絶対にあったはずなのだ、母とともに越えた春が。だというのに、母の存在と記憶は、なぜか春と結びつかない。母は夏生まれで、その破顔はまるで真夏の太陽のようだったからだろうか。こたつの天板に裁縫道具を広げるその背中ばかりが、目に焼きついているからだろうか。

記憶をいくら綺麗に並べてみても、桜の下に立つ母の姿が見当たらない。

だってもう、着ていた服すら、よく思い出せない。お気に入りだったのは、深い紺色のデニムシャツとチューリップみたいな形の帽子。それらを覚えているのは、遺影で微笑む母がそれらを身につけているからにすぎない。



「死」には二段階あると思う。「肉体的な死」と「存在的な死」だ。前者は、鼓動も呼吸も終えた、いわゆる"死んだ”状態。後者は、「生前のその人に関するリアルな記憶」を持つ人が、この世界からひとり残らず消えた状態。

だからこそ、私は母との記憶を失っていくのが、とても怖い。だって忘れてしまったら、本当に母は死んでしまうから。


母が「肉体的な死」を迎えた日、世界を包んだのは激烈な吹雪だった。その白さが恐ろしかった。私の視界を輝かせていた色が、母とのなんてことのない日々が、母という存在が、その白に塗りつぶされて「なかったこと」にされてしまいそうで。


小学校の図工で描いたシクラメンの版画絵。ハム太郎のスタンプで手作りした拙い栞。使われることもないまま手帳に挟まれていた「おてつだいけん」。母の日にあげたカーネーション、その花自体はもうとうの昔に枯れたのに、安っぽい土台のカゴだけが飾られている。

遺されたのは、この私すら覚えていない、「私」の残滓だった。

「死」って、なんて虚しいんだろう。どれだけのモノを想い出と一緒に取っておいても、そのひとつすら持っていくことができない。

母が大好きだった小説『赤毛のアン』とあのデニムシャツ、棺桶に入れはしたけれど、結局肉体と一緒に燃やされてしまうだけだった。燃えたら一緒に逝けるのだろうか。だとすれば、「眼鏡は燃えないから入れられません」と言われたのは、釈然としない。母は目がとんでもなく悪いのだ。眼鏡がなきゃ、『赤毛のアン』を読めない。



「冬」から逃げたかった。「春」は怖かった。

母が亡くなってから、少し落ち着いた頃。私は実家の周辺を歩き、写真を撮ってまわった。「母」の欠片が、まだどこかに残っている気がしていた。

住宅地の道路脇に、福寿草が咲いていた。

私にとって福寿草は、この寒い田舎町に何よりも早くやって来る、春の足音だ。緑すらなく、薄い砂の茶色と、アスファルトの灰色と、土の混じった雪の白色。その景色のなかに鮮やかな黄色い花弁をみつければ、長い冬の終わりに心を踊らせたものだ。

でも、この日みた福寿草に感じたのは、まぎれもなく、恐怖だった。


「母がいないのに、春が来てしまう」


生きている限り、季節は誰にでも平等にやって来る。喜びに胸を熱くしてもゲリラ豪雨は降るし、哀しみに打ちひしがれても花は風に舞う。それは一見希望的ではあるけれど、絶望的でもある。そんなこと、今まで知りもしなかった。

四年前の春、それは二十年ちょっと生きてきた私にとって、初めての「母がいない春」。

母の時は止まり、それでも私は一歩一歩、年をとっていく。着実にひとつずつ、母の年齢に近づいていく。母が逝ってしまった極寒の冬から早く逃げたくて、暖かい風が吹く春を待ちわびていたのに。その春すら、私にとっては立ちはだかる大きな壁だった。

母を失って、その存在の大きさに気づいて。その大きさに、私はどれだけ寄りかかっていたのだろう。そこには私の弱さがあった。一人暮らしを始めて、大人になれたつもりだった。でも実際は、全然大人になんてなれていなかった。

母の言葉が、母との想い出が、母からの愛が、もっともっと欲しかった。



二人でショッピングモールに出かけて、本屋に入り浸ったあの日。お互いに買った本を読んで、読み終わったら貸し借りっこした。今でも私に「読書という行為」と、「読書は楽しいもの」という感覚が根づいているのは、どう考えたって母の影響で。

学校の友達から勧められてハマった小説『図書館戦争』を母に貸したら、母ももののみごとにハマった。そのマンガ版も、新刊を買うたびに母に貸して、感想を言いあったものだ。


ひとつだけ、「春」を思い出した。

それは私が精神を病み、大学を休学して半年が過ぎた三月。私は「写真がやりたい」と大見得を切って、ついに退学した。今思えば当時のそれは、大学に行きたくなさすぎて、父親に退学を認めさせるために作りあげた"偽物の夢”だった。しかし、母は私の言葉を100%信じて、ただ頷いてくれたのだ。

当時の私はずっと電柱を撮っていた。母は「電柱の写真集とか、出せたらいいねぇ」と言った。その眼差しは春と同じで、柔らかい光を含んでいた。

足元には、オオイヌノフグリが咲いている。その花言葉は、「清らか」「忠実」、そして「信頼」。



母の分まで生きようとは思わない。私の人生はあくまで「私」のものでしかないから。だから今写真を撮りつづけているのも、文章を書き始めたのも、母とみた夢を叶えるためとか、そんな美しいものではない。ただ「私」がそうしたいからやっているにすぎない。

私のなかに沈殿する「母」の残滓が言っている。「自分の生きたいように生きていけばいいんだよ。」それは二十一年間、私が母から受け取りつづけてきたモノの結晶だ。

だから私は、母との想い出を書き残し、母にみせたかった景色を写し撮る。

母がいなくなった事実がこの心に影を落としても。わずかなこの想い出すらいつか忘れてしまうとしても。「母」の残滓は光としてありつづけてくれるのだろう。それが照らしている場所は、今の私にはまだみえないけれど。


私は母とみた春を想いだせない。でも、あの春に私をみつめたその眼差しは、まだちゃんと覚えている。その暖かさを抱きしめて、私はまた春を越えていく。


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風が吹く。あなたがいない、五回目の春が来る。



良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。