脈絡もなく夏(写ルンです一個分の写真ぜんぶとエッセイ)
ほぼ家から出なかった廃人のような七月。
最終週の平日だけ働いた。
去年、働いていた居酒屋が緊急事態宣言によって休業に追いこまれたとき、「この一回じゃ済まないんだろうな」と思って、イベント系の人材派遣会社に登録をした。その居酒屋が結局閉店してしまった今、この派遣の仕事にちょこちょこお世話になっている。
我ながら、よくもまぁ、人見知りで緊張しいの私がこんな仕事をできるものだなと思う。その日その場に行かなければ、どこに配置され何をするのか、どんな人と一緒に働くのか、どんな人が上司になるのか、何もわからない。それを現場ごとに繰り返しているのだ。
今回は、特段難しくはないが、関係者の方に失礼がないよう振る舞わなければならない仕事だった。それでも臆することなく、ちゃんとやり取りができた自分を素直に「スゲー」と思う。
不思議なことに、仕事だと人見知りな自分があまり出てこなくなった。
そういえば昔、フードコートのフロアでテーブルを拭いたりお客様対応をしたりしていたのだけど。その仕事の研修で、エリアマネージャーから「フロアに出たら女優になりなさい」と教えられた覚えがある。
きっとみんな、社会の中で、何かしらを演じている。
それは別に嘘の自分になるってわけではなくて、社会の中でうまいこと生きていくための技術であり、確かに自分の一部からできあがる自分自身だ(もちろん、何の技術もいらない素の自分でいられる時間がないと疲れてはしまう)。
たぶん私は、フードコートや居酒屋での接客業務に揉まれ、人見知りしている暇などないし、堂々としていたほうがむしろ都合がいいと悟ったのだろう。そして人見知りではない自分を演じる技術を獲得した。自分でも気づかないうちに。
まぁ、仕事というスイッチがない場所ではいまだにかなり人見知りしてしまうけれど。
高架を走る通勤電車の中から、はるか遠く、見知らぬ街を見渡す。その彼方には山々の青いシルエットが立ち上がっている。この一瞬、唐突に、自分はとても小さな生き物なんだなと思った。
思春期の頃は、社会の歯車と化すことに嫌悪感を抱いていたものだ。だが、それはまったく悪いもんじゃないんだと、ようやくわかった。むしろ生きている実感を得るには必要なのだ。ヒトは「社会性」を種の生存戦略として選んだ生き物だから。
早朝の駅前で、すれちがう通行人と同じ方向に道を譲り合ってしまって「ああっ」となる現象を、人に慣れすぎたはとぽっぽとする。
いや……まさか君……本当は、ヒト……?
毎度毎度、イベント派遣は不思議な仕事だと感じる。
たまたま同じ現場に入り、偶然にも同じ場所に配置された誰かと、その場所の責任者に従って動く。現場が終われば、とたんに全員がただの他者になる。何もかもがその場限り。もう二度と同じメンバーが集うことはない。あるとしても、その確率はきっと天文学的な数字だろう。
それでも残る記憶はある。
優しい声の人が直属の上司だった。
私のように人見知りなのか緊張しいなのか、初日は全然目が合わなかったけれど、最終日になると目を合わせて雑談ができた。こんな下っ端にも丁寧な敬語を使って話してくれた。そんな人から一回だけぽろっと零れた一人称が「おれ」だった。
そんなこと。
そんな、この場限りでもう二度と会わないかもしれない方のこと。
最終日、その方が「ありがとうございました、助かりました」と言ってくれた。これが、様々な人間を相手にしなければならない立場にある“俳優”としての言葉ではなく、素の、あの方自身から自然に湧き出た言葉だったら良いのにな。そんなふうに考えてみる。
その日の帰り道は、なぜかまっすぐ帰るのが億劫で、無意味に駅の周辺を歩き回ってしまった。
入道雲がはるか遠くに見える。オレンジ色のゆらぎが青空を侵食していく。あらゆる造形物が黒いシルエットになっていく。生ぬるい風が、誰かの家からおいしい匂いを運んでくる。汗だくのサラリーマンが自転車で坂道を登っていく。
優しい声の人が直属の上司だった。たったそれだけのことが、まるで恋みたいに、なんとなくあたたかく残っている。どうやら私は、いまだそういう感性を殺さぬまま、この社会に生き残っているらしかった。
いや、もしくは単に、夏のせいだろうか。
いずれにせよ、しょうがないから、もう少し生きてみることにする。夏。かつて死のうとした季節。それでもわりと好きな季節。
良いんですか?ではありがたく頂戴いたします。