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【診断まで】5.周囲の無理解、孤独、不安

青空子育てサークルで感じていた「関係を持ちたい」息子


初語が出たのは2歳ちょっと前だった。それは振り返ってみると「感動の共有」のための言葉(「カンカン!」=踏切/電車だよ! と私に共感を求める言葉)で、「要求」の言葉ではなかった。その時点ですでに「関係性」の情緒が育ち始めていたのかもしれない(ASDの子は「必要」と感じて発語することが多いため、要求の言葉が先に出ることが多い)。

外遊びのその子育てサークルでも「お友だちと積極的に関わる」と言うことはあまりないものの、毎回お友だちが固定されている(来る子、来ない子はいるけれども)こともあり「顔を見知っている」ことが分かっている、と言うことがこちらにも分かるほどになってきていた。

その頃には「お隣さん」と別の場所であっても「同じ人だ」と言うことが認識できており、子育てサークルで出会う数名のお友だちと保育園が開催する子育てひろばで出会っても同じお友だちだと認識していることが多かった。

この記事 でもちょっと触れたように、お友だちに「声をかける」ことができなくても、目を合わせることがなくてもその存在は意識していたように感じ、どうやって関わりを構築して行くか、遊べるようになるか、ということも、考えてはいた。が…「人と関係を築く」ということは、コミュニケーション手段が少ない息子にはまだ教えることは難しかった。「動作模倣」ができればお友だちの真似をするようになるかもしれない…と思いつつ。

理解されない、セーフティゾーンのない息子の「危機管理」

ASDの息子には、セーフティゾーンがなかった。

一定の距離ならお母さんから離れても大丈夫だけれど、ある程度離れると振り返って「お母さんいるかなー」と確認する。それが「当たり前」の発達。いわゆる「自分1人でOKなセーフティゾーン」が存在する。いつもと違う(例えば犬に遭遇した)ことがあると、「触ってみたいなあ。いいかなあ」と、お母さんの顔を伺う「社会的参照」。

これがない、ということはどういうことかというと
「衝動のままにどこまでも行ってしまう」
「危ないかもしれないという予測なく、こちらの予測不可能な行動をしてしまう」
ということ。

そのため、例えば子育てサークルでは

ー突然走り出し、振り向かずにどこまでも行ってしまう
ー見たことのないもの(危険なものでも)に躊躇なく手を出す

と言うことがしばしば起きる。「振り向いてくれるだろう」と少しでも「見て」いたりするとあっという間にどこかに行ってしまうし、ガラスやタバコの吸い殻など、当たり前に手を出す。川の中に気がついたら入っている。

感覚の過敏と鈍麻が入り混じっている、まだ運動分野の発達がしっかりしていないので走り方もおぼつかない。

なのでいつも、息子がちょっと走り出すと、何を置いてもダッシュして追いかけた。そんな私を「ちゆちゃん、いつもアスリートだよね(笑)」と半ば呆れたようにママ友たちは見ていた。「大丈夫だよ〜そんなに遠くに行かないから」と何度も言われた。その度に説明するのは心が折れてしまうので、最後はもう言うこともなかった。

「手を放したら、死んじゃうんだよ」

と、心の中で叫んでいた。定型児さんでもその危険は、なくはないけど、衝動性が高かった息子はその危険性は何倍にもなるのだと言うことを、どうしても理解してもらえなかった。「過保護」と言うのではない。「やりたいことを大いにやらせてあげたい。それでも危険性は少しでも低くしたいから、そばにいる」それだけなのだけれど。

決め手になったのは「水への執着」への無理解

楽しくなかったわけではなくて。
自然の中にはたくさんの面白いことが詰まっている。人工的なものにはない造形や色彩が溢れている。色々なそうしたものを使って遊ぶのはきっと楽しい。川はキラキラしていて、光の反射が大好きな息子はとても楽しんでいたし、とても良かった。夏はプールと同じで、浅瀬で水にどっぷり、週に何回も出かけた。

「自閉っ子ちゃんは水が好き」

の定説に漏れず息子も水が大好きだし、いつまでも入っていたがった。

けれど、秋になり始め、少しずつ水が冷たくなってくる。それでも水への執着があり、「そこに川があるから」と、水に入る息子に、私は少しずつ恐怖を覚え始めていた。一旦水に入ってしまうと上がってこない。「寒いと思ったら上がってくるよ」と周囲からは言われていたし、心配する私に「心配しなくても大丈夫だよ」と声をかけるママ友もいた。「水への執着があったらそれはない」と考えていた私は、「そろそろ無理かもしれない。お休みしようかな」と考えていた。

「寒さを感じる感覚がちょっと違うか、寒くても上がることが(執着が強くて)”できない”んだな」

と認識したのは、サークルのイベントの時。
11月末、小さな水路がある川辺のデイキャンプ場でのイベントで、家族総出で参加した。水路に入り始めた息子は、全身が濡れても出ない。唇がチアノーゼ気味になったのを見かねた夫は、息子を抱え上げて水路から出した。実際、身体中が冷え切って震えていた。急いで着替えさせたけれども、その間中、そこからずっと癇癪を起こして泣き叫び続けている。着替えさせたら、まだ身体中冷たいのに水路へ突進して行こうとする。そこを、何度も止める。最後は、ベビーカーに乗せて、ベルトをつけた。周りから見たら「拘束」になるだろうけれど、それ以外、方法がなかった。

その日、決断した。
「川のそばでの活動の時にはお休みしよう」

帰宅前に、リーダーさんにその話をした。息子の特性があるから、川のそばでの活動の時はお休みしたいこと。他の場所で活動をする時には参加したいこと。サークルの活動自体は個人的にとても素敵だと思っているので参加できなくて残念だと思っていること。

だけれども、「冬の時期に川のそばで活動するのは非常識っていうこと?」と捉えられたのかもしれない。そこで「思い切りさせてあげたら良いじゃない」「保育園や幼稚園に入ったら、しちゃいけない、って言われることが多いけれど、ここではそれを言わないようにしているから、喧嘩も思い切りすればよくて」「そういう経験が今後の糧になっていくんだよ」「周りを見て学んでいくよ」「うちも、最初私以外と遊べなくて、大丈夫かなと思ったし、今もそういうところあるけれども、その内大丈夫だと思うよ」

いくら「川(水溜りでも)があるから入りたい」→「寒くても上がれない」ということが危険だから、と言うことを説明しても、「ちゆちゃんが、息子くんのやりたいことにブレーキをかけている」「冬季に川で遊ぼうとしているサークルの活動を否定している」としか、捉えてもらえず。

残念だけれど「お休み」ではなく「退会」するしかないな、と決めた。

市内でも発達障害を持つお子さんが多く通う幼稚園のママさんだったけれども、「接している」のと「理解している」のは違うのだな、と言うことを思い知った出来事でもあった。

孤独と不安

私は間違っているのだろうか。引き離したら癇癪を起こすほどの執着を受け入れて、川に入り続けることを許容することがいい子育てなのか。もっと安全に「やりたいことをやらせてあげる」では、足りないのか。そして、「そう言う参加の仕方があってもいいよね」と受け入れてもらえるところはないのだろうか。

その後、私はその思いに悩まされた。

発達の仕方には、それぞれの違いがある。息子の場合はその「違い」が少し大きく、「育ちにくい」部分があって、そこは「放っておいて」育つものではなく、少しずつこちらがステップを用意して、1つ1つ登っていくことで「習得していく」必要がある部分であって。

また、身体や五感の感覚も、私や夫と違うところがたくさんあるように感じていた。足の裏、指先、味覚、光の感じ方そして痛覚。こちらが分かっている、と思ってはいけないように思うこと。手探りだった。

その他にどんなことがあるのだろう。

この子が心地よく、伸び伸びと育つためにはどうしたら良いのだろう。「ママ友」のいる「子育てサークル」から、ぽつん、と取り残されてしまった私は、自分がどこに行こうとしているのか、息子を目の前にして分からなくなってしまった。

誰にも相談できない。誰にも聞いてもらえない。分かってもらえない。

その気持ちは、私を押し潰すほど大きくなっていった。




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