『ワタツミの帰還』(千咲作「ワタツミ」より)
深い
深い
ここは……
ここは……
大地の奥底……
私は一体
ここで何をしていたのか
私は一体
どうしてここにいるのか……
視界に色がなくて
なにも見えないの
私の姿も
この場所さえも……
ほんの少しだけ
音が聞こえる
さらら…
さらら…
さらら……
この音と
そして香り……
覚えがある
いつだったっけ…
何処だったっけ……
私はこの音と香りが
とても好きだった気がする
『迎えに来たよ』
『迎えに来たよ』
『やっと見つけた』
『やっと見つけた』
『帰ってきておくれ』
『帰ってきておくれ、私達の元へ……』
『私達の大切なあなた』
『あなたの事をずっと探していた』
『お願い、私達の元へ帰ってきておくれ』
『”彼”は、あなたを探しに出たまま、居なくなってしまった』
あなた達はだあれ?
私を知ってるの?
”彼”ってだあれ?
私を知ってるの?
私は……
まだ……
なにも思い出せないの……
手を引かれて
明かるい方へ
音と香りが一気に強く押し寄せた
一面に広がる海
これは、波の音
これは、潮の香り
私はこれをとても知っている
ここを、とても知っている
そして私はここが大好きだった
海の者達が
『あなたの衣だよ』
と、羽衣をかけてくれた
ああそうだ
これは”彼”からの贈り物だった
天から海に降りて
遊んでいた最中
無くした羽衣
羽衣が無ければ
私は天には帰れない
途方にくれて泣いていた私に
優しく声をかけてくれた”彼”
「羽衣が見つかるまで、これを使うと良い」
裸のままだった私に
”彼”がくれた贈り物
天の羽衣とは違って
飛べたりはしなかったけれど
海の中を自由に泳ぐことができた
”彼”は海の王
海に生きる者達を護り
その命を育む者
その名はワタツミ
深く
深く
広く
とても温かい心を持った人
私は”彼”の声から耳が離せなくなり
彼の瞳の色から目が離せなくなった
私は
”彼”の手を取り
そして
それを自分の胸に押し当てた
こんなに心が脈打つのは
初めてなの
私の声も
一つたりとて
聞き漏らさないで欲しい
私の瞳の色も
あなたしか知らなくていい
私を受け入れてくださるのなら
私はあなたと共に
この海を
永久に護りましょう
婚礼の儀は
海の者達総出で行われ
天も
私達の婚儀を祝福してくれた
私はこうして
海の王の妻となった
妻になって改めて
”彼”の大きさを知った
”彼”の広さはこの海と同じ
”彼”の深さはこの海と同じ
永遠と巡る命を
見護り続け
育み続け
送り出しては
また生まれるように
巡りが止まらぬように
時が止まらぬように
そんな
”彼”が大切にしていた海
どうして今はこんなに淀んでいるの?
時が止まっているの?
”彼”は一体どうしたの?
一体どこに居るの?
『ワタツミは、あなたを探しに出て行ったよ』
『そのまま今まで帰ってきてない』
『居場所もわからない』
『あなたはね、あの時連れ去られて行ってしまったの』
『人間がやってきて、あなたを連れて行ってしまった』
『困っているから助けて欲しいと言っていた人間』
『あなたの力があれば助かるからと』
『あなたはそれに協力すると』
『人間と一緒に行ってしまった』
『そしてそのまま、あなたは帰ってくる事はなかった』
そうだ
そうだった
私は
人間の言葉を真に受けて
人間達を憐れと思って
少しの間ならと
この海を離れ
陸へと上がったのだった
人間は確かに憐れだった
助けが必要だった
己達ではどうにも抗えない困難
助力が必要なのは明らかだった
でも……
人間の中に特別な知恵者が居た
わたしはまんまと
自らを生け贄に捧げる事になってしまった
私がその場を離れれば
多くの人間がいとも簡単に死ぬのは目に見えていた
私は逃げることが出来なかった
人間を見捨てる事が出来なかった
”その地を護る者”
その礎となるために
私は生け贄にとなったのだった
そこで私は
私を失ってしまったのだ
”彼”を裏切る行為を
自ら選択してしまったのだ
”彼”は
私がそんな穢れた者になってしまった事を
知っているのだろうか
知らないから
探しに出たのだろうか
それとも
それを知って
私を殺めにここを出たのだろうか
殺めて……
殺めて欲しい……
私はもう
あの頃の純粋な存在ではない
人間と深く関わり
交わり
我らがそうであってはならぬ事をした
生け贄など
ワタツミの妻がなってはならぬのに
私は穢れてしまったの
この海に居る事すら
許されないでしょう……
私は
ここを
海を
離れようと思います
天にも帰れません
どこか遠く遠くで
ひっそりと静かに
あなた方の幸せを
願おうと思っています
けれども
先に
この淀んだ海をどうにかしなければ……
今の私の力では
止まった時を動かす事ができません
巡りを再び起こす事ができません
”彼”を
ここへ連れ戻さなければ……
海の者達よ
天の者達よ
どうか
私の最後のお願いを聞いてください
私を探しに出て
今だ帰らぬ”彼”を
ワタツミを
再びこの海に
”彼”を探して
この海に連れ帰って欲しい
私の命を
あなた方に力として分け与えます
どうか奮い立って
私の命を糧に
ワタツミよ
私はあなたを知って
海を知って
天を捨てて
人を知って
大地を知って
あなたを裏切って
もうどこにも居場所はありません
泡にもなれない
風にもなれない
もちろん
あなたの妻である事も許されません
けれど……
受けたご恩
与えて下さった愛情
消して忘れません
あなたの声
あなたの心
あなたの瞳
忘れられません……
ありがとう
今でも
これからも
変わらずあなたを愛しています。
今の私に出来る事は
皆に力を分け与え
命を賭して
あなたをこの海に戻す事
どうか、どうか、お戻りになってください
この火を
不知火を灯しましょう
ここが見えずとも
この灯りなら明るさが伝わるでしょう
温かさが伝わるでしょう
パチパチと
燃える火の音が聞こえるでしょう
どうか
どうか
ワタツミの帰還を
暫くして
急に
時が再び動き出した事を感じた
私の髪はみるみる白くなり
私の体はみるみる溶けて
私は
泡でもなく
風でもなく
そしてワタツミの妻でもなく
”ワタツミそのもの”となった事を
知ったのだった
『おかえり!』
『おかえり!』
『おかえり!』
海の者達が賑やかにはしゃぎ出す
ワタツミは
”彼”は……
そう……
もう、この世には居ないのね……
『おかえり!』
『おかえり!』
『おかえり!』
『おかえり!』
『おかえり!』
海の者達の声はどんどん増えて
生まれて増えて
しだいに大きくなっていく
その増えてゆく声のなかに
たったひとつだけ
聞き慣れた愛しい声があった
「おかえり」
千咲(ちえみ)の名で描きました。
『ワタツミ』
という作品に物語を付けたものです。
この作品には、ペアとなる作品と物語があります。
作中に出て来る”ワタツミ”サイドのお話です。
合せて読んでいただけたら、幸いです。
↓
『ワタツミ』
A4サイズ
檜紙
アクリルガッシュ
2021年5月
千咲作
絵の制作のご支援者様
・星様
・A様
・なお様
・コハク様
・夏雁 結様
・ゴン♪様
・北の白妙辰様
本当にありがとうございました。
創作活動に活用させていただきます!どうぞよろしくお願いいたします!