「子供を守る」の効力

 先日の記事に引き続きTwitter「児童の性的搾取に関するポリシー」に関連する話である。

 最初の引用は先日(2/26)にTwitterに投稿されたスレッド(こちらのツイートに連なっている)の一部で、投稿者は「件のTwitterのポリシーを見ても、実際に起こっている性的搾取への対策より自分たちの趣味への影響を先に考えてしまう人々への懸念や呆れ」を表明している。その次の引用も同様の趣旨のツイート(こちらは2/25投稿)である。確かにTwitterのポリシーをTwitter内で行われている実在の児童・未成年者の性的搾取に対する対策と考えれば、「実在の被害を無視して自分たちへの影響のみ考える姿勢はTwitterの住人としてふさわしくない」という指摘には一理ある。

 しかし今回これだけこのポリシーが話題になったのは、その中で非実在の児童・未成年者をも保護の対象とされるように、さらには「妄想」まで禁止と内心の自由まで侵害するように、解釈されたからだと思われる。しかも、実在の被害への対策にとどまらず非実在未成年コンテンツまでも(ともすると非実在のほうを主軸に)潰そうとする勢力からの影響は既に知られている。彼ら「自分の心配しかしないTwitter民」も実在の被害への対策には賛成するだろうが、かといってこの「対象が広すぎる」ポリシーに黙っていることもできなかったというところだろう。

 果たして「被害者」が実在しない状況においてその「性的搾取」が可能なのか、最初のツイートの投稿者は「妄想を発信することが既に児童に対する性的搾取だ」という立場らしいが、(対象が非実在であれば特に)誰の何がどのように「性的搾取」されるのかよくわからない。単に「不快に思う人がいるからダメ」というのであればそれはすなわち表現の自由の否定だろう(表現の自由を規制してでも守るという立場はあるとは思うが、それが自分の好きなものにも及ぶ覚悟は必要になる)。

 この話はさておき、今日の本題はここからである。

 この投稿者は「件のポリシーに騒ぐTwitter民の、実在の子供を守ることへの関心のなさ」を問題としたわけだが、しかし「子供を守る」という目的のもとに連帯することは現在そして今後どれほど効力を持ちえるのだろうか

「子供を守る」というのは社会にとって大事なことである。先史時代から現在まで社会は人口の再生産によって維持更新されてきたし、また近現代では子供の人権に対する意識も高まっている。「子供を守る」というそのこと自体に反対する人は(「自分の趣味の心配ばかりする」Twitter民にも)なかなかいないだろう。

 しかし現代では、誰しもが子供をもつわけではなくなってきている(そのような時代は日本の歴史上過去にもあったようだが、ここでは近代以降との比較の話としてである)。自分に子供がいれば自分の子供は当然守ろうとするだろうし、社会に占める「親」の割合が高ければ「子供を守る」という目的で連帯することは容易になると思われる。では、「親」になる人が減った社会ではどうなるだろうか。

「児童の性的搾取に関するポリシー」を見ても「自分の趣味の心配ばかりする」ように見えるTwitterの人々にとって、現実の子供、「守るべき存在」としての子供は遠い存在だったのかもしれない。おそらく彼らの多くがまだ若く、それに所謂「二次元趣味」「オタク趣味」であればなおさら世間一般より既婚であったり親であったりする可能性は低いように思われる。そのような層にとっては、自分の子供が被害を受ける、あるいはそのような「性的搾取」の対象として見られる危機感よりも、今自分の趣味・嗜好が規制されるかもしれないという危機感が先に立つのは、ふさわしいかどうかはともかく自然な反応と言えるのではないか。昨今の「好ましくない」表現を規制しようとする勢力の活動に警戒しているならなおさらである。

 さらには、彼らのうちのある人々にとっては、子供というのは経済的・社会的成功を表す「勝ち組」の人々の象徴のように思えるかもしれない。もちろん彼ら含め子供のいない人々も、将来は次世代に社会を支えてもらうことになるので「社会で育てる」というのは彼らにとってもメリットがある話のはずなのだが(「社会で育てた」とて将来未婚子無し層まで次世代が本当に支えてくれるかは疑問もある)、心情はまた別の話である。「現実の子供を守るためにあなたの好きなものを規制します」というのは、ある人たちにとっては「独身税」と同じような構造を見せることになりかねない。


 確かに「児童の性的搾取」への対策として作られた今回のTwitter社のポリシーを見て、第一に現実の性的被害ではなく自分の趣味の危機を感じてしまうのは、ポリシーの内容に問題があったにせよ、批判されても仕方ないかもしれない。しかし親になる人が減少しつつある現代において、しかも今回問題とされたTwitter民のような「自分の子供」がいない人が多い(そしてこの先もつこともない可能性が大いにある)層にとって、「子供を守る」ことへの想像力を働かせることは容易ではないだろう。子供のいない人々が、将来支えてもらうかもしれないとはいえ(ただしその保証はない)「自分と関係ない」子供(もしかしたら「勝ち組」の象徴として反感の対象にすらなっているかもしれない)を守るという「大義名分」のもと、自分が今現在楽しんでいることを奪われようとするなら、反感を抱いてもおかしくない。子供をもたない/もてない人々の増えた社会では、「子供を守る」コストを社会全体で負担することは困難になっていくだろう。

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