さようなら吹き溜まりの諸君

清流が清流であるのは流れがあるからだ。
流れのない水たまりには、これ格好にと、行く当てのない様々な因子が吹き溜まりとなる。

堆積する吹き溜まりの因子らは醸成し水の色を濁していく。
浄化されない濁った水は腐敗臭が好きなモノ達の絶好の環境だ。
濁った水は腐敗し毒され通常のモノを受け付けることはない。
太陽の光も風も受け付けない。
時々降る雨粒の酸素によって、かろうじてその吹き溜まり存在は許されるのである。

それが場末と呼ばれるところである。
それが吹き溜まりの末路でもある。

雀荘でよくある話だ。
常連という者が醸成され、常連からして心地悪い他者を受け付けなくなってくる。
限られた、許された連中だけで楽しい時間を過ぎる空間と時間。
だがその姿は外から見る者にとっては、みっともなく、あさましい。

時間は過ぎる。時間は人を待たない。
そして人は歳を取る。

幾通りもある麻雀牌136枚の組み合わせは、常に新鮮味があり面白いが、その空間が閉塞感に圧迫され腐敗臭が漂うのであれば、そこは私のいるべき場所ではない。

ただ糞の周を飛び回る蠅のように、腐敗臭が好きな連中がいるのも確かであるが、Not for me である。

昔よしみで通って楽しそうなふりでやってきたがそろそろ潮時だ。
もうこれ以上不快な思いをするための時間はない。

さようならである。







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