[コラム] 言葉と人間と自己と他者
今日は、人間がどのようにして言語を習得し、自分自身とこの世界の関係を認識していくのか、我が子を観察して私が感じとったことを、SFっぽい解釈でまとめてみようと思う。
うちの娘は2歳6ヶ月。
ここ1ヶ月ほどで語彙力が一気に高まった感じがある。
ほんの数ヶ月前までは、親の会話を聞いていたんだな、保育園で言ってるんだろうな、と、ある程度、言語の取得ルートが想像できたし、会話が成立しても、真似事の域を出ないレベルであった。
「あさよー!」
「ねんねしますよー!」
「これなんだ?」
「いっぱーいあるね!」
「ちゅるちゅるめんめんたべたいなー」
しかし、今は、どこでどう何を吸収してるのか、追いきれないうえに、いつのまにか複雑な内容の会話も成立するようになってしまった。
しかも、過去や未来といった時間の概念も育ってきている。
「ジュースかいたいなー、おかねくださいー!」
「ほいくえんで、えーんしたの。。」
「かーちゃんも?こうえんでゴンしたの?」
「とーちゃんがギョーザやいて!」
脳が覚醒して、ギアをひとつ上げたんだ。
もう彼女は私の把握できる範疇を超えてしまった。ヒトになってしまったのだ。
赤ん坊ががどうやってヒトになるのか、それはもう神秘でしかなかった。
一体全体、人間って何なの?
この広大な宇宙空間に誕生した知的生命体。
その発育のプロセスは、はっきり言って、意味不明だ…。
赤子は≪人間≫をインストールして出てくる
産まれたばかりの赤ん坊は言葉のない世界に住んでいる。
それはどんな世界なんだろう??
そして言葉はどうやって習得していくんだろう??
産んだばかりの新生児を前にして、私はこの謎を繰り返し考えていた。
この子はどんな世界を見ているのか。
できることなら、子の脳と私の脳を直接繋いで、子が見てる言語のない世界を見たかった!
この子らの脳はまっさら状態なのか?
経験値ゼロなのか? 本能のみで動いているのか?
見れば見るほど、そうではないと思った。
そして私は知った。
赤子たちの脳には、≪言語≫が入っていないだけで、こちらが思ってるよりも、世界を把握できる能力を初めから持ち合わせている。
お腹の中から脳のアクティベートは始まっている。
胎内で≪人間≫というOSがプリインストールされて出てくるんだ!
赤子たちは胎内でどんな世界を体験してるのだう??
ウマやシカなどは、産まれてすぐに立ち上がることができて、我々人間からすると驚愕だ。
ウマシカたちと比べると、人間の赤子は、身体的にはとっても未熟な状態でグニャグニャだ。寝返りすらうてない。
だけど、その眼差しには、何か悟りにも似た、不思議な力が宿っている。
その目力は、なぜか赤子が人間になるにつれてマイルドになっていく。
あれは一体何なんだ??? 謎しか残らない。
ちなみに、いま娘にお腹の中の記憶があるのかしつこく聞いているのだが、的を得ない答えしか返ってこない。
「あかちゃんとあそんだのー!」
「あっちでドアあけたのー!」
なんかそれっぽい返答ではあるのだが…。
言葉の習得
この世に生まれ出ると、赤子はものすごいスピードでOS≪人間≫の拡張を始める。
その中の最も驚くべき拡張は≪言語≫である。
いろいろ調べていて驚いたのだが、人の子はあらゆる音を聞き分けられる能力を持ち合わせて産まれてくるそうだ。
言葉の発音にすると、800音くらい聞き分けしてるらしい。
ちなみに、顔もめっちゃ見分けている。
それは、ヒトというより、とても機械的な能力に思える。
で、6ヶ月から1歳になるまでの間に、母国語に多い発音だけを拾うように特化していき、他の音を聞き分ける能力は次第に失われていくそうな。
それと関係あるのかわからないが、だいたいそれくらいに赤子が出す声は、日本語にはない発音も多い感じがある。
この時期にものすごいチューニングを行っているんだろう。ヒトになるために。
言葉の存在に気が付き吸収し始めるのは、おそらく8ヶ月前後なのかな?
もちろん、発話より先に聞き取り能力が発達する。
赤子と思っていても、結構、見聞きしているよ。
気を付けよう!
そして驚愕のスピードで彼らは言葉を学習していく。
早い子だと1歳前後で意味のある単語を発したりする。
言葉の学習と、二足歩行への移行が同時に行われていくのが興味深い。
娘も2歳になる前に、木を指さし「葉っぱ!」と言ったのが最初だった。
全ての物に名前があることを発見した娘は、毎日何度でも「なにこれ?これなに?」と聞き続け、我が家では「何何地獄」の日々が続いた。
私はヘレン・ケラーを思い出していた。
物に名前があるという発見は世界を広げるんだな。
そしてある日突然、二語発話が始まった。
「あんこ!あんこ!」から、「あんこ、たべたいなー」なったのだった。
ここから言葉の学習は加速し、冒頭で書いた状態へと進化した。
今の娘には ≪言の葉≫ が完全に入った状態と私は認識している。
子どもの発育には大きな個人差があるので、他の子と比べてうちの子遅いのでは??と心配になるときもあるかもしれない。
でも平均より遅いかもと感じても焦らないで!
もしも本当に心配なところがあれば、地域の児童相談所などに行くと、何百人と子供たちを見てきたその道のプロが相談に乗ってくれる。
目から鱗なことがたくさんあるので、不安がある人はぜひ行ってみてね!
家族も本人も楽になること多し。
世界の把握と言語の関係
というわけで、娘の喋り始めの超絶面白い時期は終わりを告げ、別の段階へと進んでしまったのだが、うちにはもう一人、面白い奴がいるんだ。
4歳になるダウン症の息子だ。
こちらは絶賛言語を吸収中。
息子も例に漏れず人間というOSがプリインストールされて出てきたが、成長の段取りとスピードがちょっぴり違っている。
ダウン症の子たちは発達がゆっくりなので、彼は通常の2~3倍くらいの時間をかけてゆっくりゆっくり言葉の世界へと足を踏み入れてきている。
いまちょうど、いくつかの言葉を聞き分け、自分でも少し発音してみたりする段階だ。
まさに、通常の子の1歳前後あたりのことをやっているのだが、本物の1歳児とはまるで違っていて、似て非なるものなのが面白い。
彼の行動の中には、4年間生きてきた歴史みたいのがあって、本物の1歳児と比べると、現世にこなれてる感がある。
長いハイハイの時代を経て、3歳と数ヶ月で二足歩行をはじめ未だヨチヨチ歩きを脱しきれてないところだが、物事の把握は驚くほど早く、手先も器用だ。
新しい道具やおもちゃを見ても、すぐ使い方を理解するし、工夫したりもするし、大人や友達のやっていることをよく観察し、真似するのも得意だ。
絵本もじっくり眺めて楽しんでいる。
先日、息子が簡単にやってて驚いた遊びがある。
大根やニンジンの写真の上に、大根やニンジンのおもちゃを置く、というものだ。
写真とおもちゃが似ても似つかない姿をしてても、迷わずほいほい置いていた。
私が見ても一瞬わらないくらいデフォルメ化されたプラスチックのニンジンを、本物のニンジンの写真の上にポイと置いて、ほめてと言わんばかりに、パチパチと手をたたいていた。
絵(写真)と立体物を結びつけられるのは、実は結構高度なことらしい。
色や形が違っていても、同類と判別できる能力はすごい。
ハサミの絵を見せられた時に、家にあるハサミとは似ていないのに、チョキチョキする仕草をしたりしてた。
これらの遊びは、言語聴覚士という、言葉によるコミュニケーションのリハビリみたいな指導をしてくれる先生とやっているものだ。
このように記号化されたものの理解と、言語の習得には密接な関係があるっぽい。
自分では当たり前にやっていて、気にも留めなかった人間の脳の凄さを、息子を通じて見せてもらえている。
これをコンピーターにやらせようとすると、大変なことだぞ。
で、こんな複雑な情報処理ができるのに、息子からは言葉はなかなか出てこない。
『言葉』というのは本当に特別なスキルなんだ。
こんなにマッチング作業は得意なくせに、「ニンジン、ちょうだい」と言葉だけでお願いした場合は、伝わったり伝わらなかったり、まだ微妙。
とは言え、息子もここ数ヶ月で急速に成長している感じがあり、明らかな意思をもって何かを持ってきたり、指さしたり、肩に触ったり、声を出して訴えたりするシーンが増えてきた。
おもちゃの箱におもちゃではない大人のものが入っていたり、読んでほしい本があったりすると、「はい」と言いながら持ってくるのでかわいい。
こういうやりとりの経験が増えると、自己と他者という概念が育ってくるのかな?
次の項ではそのことを考えてみたい。
わたしはわたし。あなたはあなた。
赤子は生まれると、まず自分の身体の把握を始める。
生後3~4ヶ月くらいになると、自分のグーの手をじーーーーっと見ていることがある。
なんだこれ~??と言う感じ。
これは、赤子が自分の手を認識したときに始まる仕草なのだ。
やがて、その手を開いたり、振り回したり握ったりできることを発見する。
こうして赤子は自分の身体が自分のものであることを知っていくんだ。
少し前に、NHKの「おかあさんといっしょ」で、こんな歌詞の歌が流れていた。
からだ だから だれか わかる
これはじぶん パタン
からだ だから だれか わかる
これはじぶん じゃない
だれ?
おともだち パタン
これはじぶん これはだれか
これはじぶん これはだれ?
(抜粋)「てとてとパタン」
ちなみに、いとうせいこう氏作詞である。
まさに赤子が自分の身体を認識している歌で、うちの子らは既に赤ちゃんではなくなってしまったので、懐かしさで胸がいっぱいになった…。
残念ながらYoutubeとかにオリジナルがないのだけど、メロディーも素敵なのでぜひ聞いてみて!
こうして、人間は、自分と他者との区別を学習していく。
例えば、こんな実験がある。
A子ちゃんに、お菓子の箱を見せて「この中に、お菓子じゃなくて鉛筆入れてフタしちゃうよ」と教える。
↓
それをテーブルの上に置き、その工程を見ていなかったB子ちゃんを連れてくる。
↓
A子ちゃんに「B子ちゃんはこの箱に何が入っていると思うかな?」と聞いてみる。
ここで、「お菓子」と答えればA子は自分と他者の区別がついてるという結果となる。
自分と他者の区別がつかないと、「鉛筆」と答えてしまうのだ。
大人でこれがわからないと、結構やばい感じなんだけど、でもね、もう少し複雑な状況になってくると、実は大人でも解っていないことがあるんだ。
自分と他人の境界は実はとっても曖昧だ。
脳はそのように解釈するようにできている。らしい。
これが他人への共感や思いやりを生み出し、社会生活を送って行くのを可能にしているのかもしれない。
けれども、その反面、他者への理解を妨げる効果もある。
「思いやり」について子どもに教える時に、ちょっと前なら
自分がやられて嫌なことは相手にしない、自分がやってもらって嬉しいことを相手にもしよう
的なことを言っていたかもしれない。
嫌なことを相手にしない、はいいとして、問題は後者だ。
自分が嬉しいことが相手も嬉しいとは限らない…という発想が抜けている。
よかれと思ってやってることは、相手にとって余計なお世話以外の何物でもない可能性がある。
自分の当たり前が、他の誰かの当たり前でもあると思い込んでいないだろうか。
自分にとっての正義が万人にとっての正義であると思い込んではいないだろうか。
自分と他人の境界は実はとっても曖昧なのだ。
娘はとてもお節介な面が垣間見えてきているので、相手のこと、特に兄ちゃんのことをほっといておけるようにしないとなーと思う今日この頃なのである。
みんなと同じにできなくていいの!
自分と違う人も間違ってないの!
それを見失ってしまうと、どんどん多様性が失われ、多数派が正解という社会が生まれてしまう。
私はそんな社会には糞くらえと言いたい。
子どものお喋りの話題からたどり着いた結論はこんなところw
最後にちょっと宣伝。
今日書いた妄想を反映している物語はこちら。
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