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[読切] 藤の花の君(第二回絵から小説)

 それは俺が十歳の時だった。

 五月の連休中、親父が持病の治療で入院している間、俺は北関東の田舎町にある叔父の家に預けられていた。

 叔父は優しい人だったが親父と同じ病を患っており、一日のほとんどを寝て過ごしていた。

 叔父には子はおらず、看病は若い奥さんが一人で対応していて、家の中はいつでもひっそりしていた。

 俺は何となく居心地の悪い気持ちがして、滞在中は出来るだけ家を留守にするようにしていた。

 叔父の家の周りを歩き回って俺は、すぐにお気に入りの場所を近所に見つけると、毎日のように通うようになっていた。

 そこは、古い巨木に見事な花をつけた藤が巻きついている不思議な光景の場所だった。

 その巨木の根元に座って藤の花を見上げていると、まるで時間とは無縁の世界に入り込んだような感覚になり、俺は現実世界のことをしばし忘れることができた。

 そんなある日、心地よい初夏の風の中いつものように藤の花の下でうたた寝をしていると、隣に気配を感じて目を覚ました。

 隣には見知らぬ女の子が腰を下ろしていた。
 俺と同い年くらいの、色白でこの世の者とは思えないほどの美しい少女だった。

 こうして俺は彼女と出会った。

 俺は馬鹿みたいに口を開けて、しばらくこの女の子に見惚れていたと思う。

 すると女の子はゆっくりとこちらを向いて「ここ、私の特等席なんだけど」と言った。

 俺があわてて立ち上がると、女の子は鈴が転がるような笑い声を発して「冗談だよ」と言った。

「おいでよ、いいところを教えてあげる」

 言いながら女の子も立ち上がり、俺の手を引いて歩き出した。

 俺は幼友達以外の女の子と手を繋いだことも無かったし、ましてやこんなに美しい女の子を見たことも無かったので、心臓が口から飛び出そうになるほど緊張していたが、さも慣れてる風を装いつつ手を握り返すと、彼女について歩いて行った。

 女の子は雑木林の奥の方へと迷わず入って行った。そこは、中が意外と入り組んでいるから入るなと大人に言われていたところだった。
 俺はしかし、怯えていると彼女に思われるのが嫌で、黙ってついて行った。

 薄暗い雑木林の中、だんだんと先が細まっている獣道を進むと、その先は子供がかろうじて通れるような木のトンネルへと続いていた。

「どこまで行くの?」

 さすがに不安になって俺が声をかけると、女の子は半分こちらを振り返って、ふふっと笑うだけだった。

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 しばらく木のトンネルの道を進むと、急に視界が開けて、目の前に小さな小川が流れている場所へと出た。

 女の子は立ち止まり、握っていた俺の手を離した。ここがどうやら目的地のようだ。
 いいところと言っていたが、なんて事はない場所だった。

 これならば、あちらの藤の花の方がよっぽどいいところではないか。

 俺はいささかがっかりして、チョロチョロ流れる小川を見下ろした。

「藤が巻き付いているあの木はこの川から養分をもらって生きてきた。だけどもう、この川は枯れそうだ。昔はもっと大きな川だったのだが、もうここの雑木林には自分たちを維持していく力が残されていない」

 女の子がまるで大人のような口調で言った。

 俺は彼女の言葉になんと返したら良いのか解らずに、ただ彼女を見返した。

「私は動けないじいちゃんの代わりに、ここの様子をずっと観察している。最近、君を毎日のように見かけるから、ここのことを教えてあげようと思って」

「それはありがとう」

 俺は自分でも間抜けだなと思うような返事をした。
 そんな自分が急に恥ずかしくなって俺は、彼女のから視線を外して小川の方を向いた。

「じゃあ、教えたからね、忘れないで」

 俺は「うん…」と答えてから、え?何を? と思い直して振り返ると、そこにはもう彼女はいなかった。

 俺はあわてて、まわりを見渡したが、どこにも彼女の姿は見えなかった。
 彼女の名を呼ぼうとして、名を聞いていなかったことに気が付いた。

 おーい、と声を出して呼んだが彼女の返事はなかった。

 こんな足場の悪い場所でそんなに早く姿を消すことは普通の人間には無理だろう。
 俺は急に恐ろしくなって、今来た道を引き返そうと、女の子に手を引かれて歩いて来た木のトンネルを探した。

 だが、木のトンネルも見当たらなかった。

 そこには、ただ、何の変哲もない雑木林と小川がチョロチョロと流れているだけだった。

 俺はパニックに陥りそうになるのを必死でこらえながら、考えた。
 こういう時、どうするのがよかったんだけ?

 この場を動かないで助けを待つ?

 …でもそれは迷子になった時や、遭難した時の話だ。

 今、この村で俺が行方不明になって、雑木林に入ったと思いつく者はいるか?

 …いないだろう。叔父さんも叔母さんも俺が出かけていることにすら気が付いてなさそうだし。

 俺は足元の小川を見た。

 この川を下って行けばどこかに出るんじゃないか?

 俺は小川を目印に歩き始めた。

 どれくらい歩いたかわからないが、何とか小川を見失わないように歩き続けて、俺はようやく知っている場所に出ることができた。

 あたりはすっかり夕日に染まり、まもなく日没というころになっていた。
 女の子とはぐれたときは、まだ日が高いうちだったので、相当な距離を歩いた計算になる。

 あの藤の咲いている場所から、そこまで遠くには来てない感じだったので、不思議だった。
 木のトンネルが近道だったのか、小川がものすごい遠回りだったのか。

 兎にも角にも家に辿り着けて俺は心底ほっとしていた。
 しかも、叔父さんと叔母さんが心配しはじめるより前に到着できた。

 俺は何食わぬ顔で夕飯を食べ、風呂に入り、床に就いた。

 布団に入ると、あの女の子の姿が瞼の裏にちらついて、いつまでたっても眠れなかった。

 また会えるだろうか…。

 朝になり、俺は朝食を食べると、すぐに例の藤の花の元へと向かった。
 しかし、そこにはあの女の子はいなかった。

 あの小川を毎日観察していると言っていたので、あそこへ行けば会えるような気もしたが、再びあの場所へ辿りつける自信は全くなかった。
 木のトンネルの道に続く獣道すら俺には見つけることができなかったのだ。

 俺は親父が退院して家に戻ることになるその日まで、毎日、藤の花の元へと通った。

 だがついに、俺は彼女と会えることなく、実家に帰ることとなった。

 それから、ほどなくして親父が死んだ。
 5月の連休中の治療はうまくいっていなかったのだ。そのことを俺は大人になってから母親に聞かされた。

 俺が叔父さんの家から戻った時点で既に、親父には余命宣告が出されていた。

 そう言われて思い返せば、叔父さんの家から戻った後は、やたらと親父が俺に絡んできていたように思う。
 宿題はいいから一緒に遊ぼうとか、一緒に風呂に入ろうとか。

 俺は、入院中に会えなくて寂しかったのかなと思っていたけれど、そういうことだったのだ。

 親父が死んだ後も、母親は再婚せずに、パートを掛け持ちしながら俺を育ててくれた。

 中学生になると、俺は新聞配達のバイトをして母親を助けた。
 親父は俺のために学費を残してくれていたが、母はその金にはどんなに生活が苦しくても手をつけなかった。

 そのおかけで、俺は高校生になることができた。

 ちょうど俺が高校二年になった五月のことだった。

 叔父さんが亡くなったとの知らせが舞い込んだ。

 親父の葬式以来、叔父さんには会ってなかったし、あの家にも行っていなかった。

 俺は、あの時あった女の子のことを久しぶりに思い出した。

 あの子は果たして実在していたのだろうか?

 それが長年の俺の疑問だった。

 通夜と葬式は叔父さんの家で執り行われた。

 母と俺が到着すると、叔母さんが出迎えてくれた。
 叔母さんは前とほとんど見た目が変わっておらず、とても若く見えた。

 親戚が集まって酒を飲み、ワイワイ話をしていた。
 自然と叔父さんや親父の話になっていた。

 俺は同世代の親戚がいないので退屈で、こっそり会場を抜け出した。

 そう、あの藤の元へと行ってみたかったんだ。

 巨木と藤はまだそこにあった。

 ちょうど五月だったので、見事な花が咲いていた。

 俺は懐かしい気持ちでいっぱいで藤の花を見上げてた。

「久しぶりだな」

 声がしたので振り返ると、なんとそこに、あの女の子が立っていた。

 女の子…と言っても向こうも成長しているので、すっかり大人っぽい姿になっていたが、俺にはすぐあの子だとわかった。
 彼女も喪服を着ていた。

 とても美しかった。

「叔父さんと知り合いだったの?」

 俺は彼女も喪服であることから推測して言った。

 最後にあんなことになったのも、それから何年も経っていることも超越して、彼女とはすんなりと会話することができた。
 置いて行かれたという気持ちもなかった。
 ただ、彼女が幻ではなさそうだとわかり嬉しかったのだ。

「この村の者はだいたい知り合いだよ」

 そういうものなのか…と都会育ちの俺は思った。

「君の叔父さんにはいろいろ世話になったしな…」

 彼女が言った。少し寂しそうだった。

「じゃあ、またな」

 言いながら、彼女はその場を立ち去ってしまった。

 また名前を聞くタイミングを逃していたが、俺はまた後で会えるものだと思っていた。

 だが、彼女はその後葬式には姿を見せなかった。

 叔母さんやこの村の人に彼女のことを聞いたら素性がわかるかもしれないが、姿を見せなかったのには何かわけがあるのかもしれないと思って、他の人に聞くことができなかった。

 俺はふと、彼女には動けないじいちゃんがいるはずだ、と思い出した。

 そこで、足の悪いおじいさんが知り合いにいるかどうか、叔母さんに聞いてみた。
 すると叔母さんは怪訝な顔になってしまい、知らないけどなぜ? と聞き返されてしまった。
 俺はあわてて、適当なウソをついてごまかした。

 せっかく彼女のが実在すると思えたのだが、再びあやふやな存在になってしまった。

 俺はそれ以上、彼女について詮索するのはやめることにした。

 葬式も終わり、叔父さんが骨になり、親父と同じ墓に入るころ、叔母さんはどこかの誰かと再婚して、あの家は引き払われてしまった。

 こうして、俺はあの村とは全く接点がなくなってしまった。

 もうあの女の子にも会うこともないだろう。
 そう思っていた。

 やがて月日は流れ、俺は大人になった。
 それなりに社会人をやっていて、毎月母親にも仕送りできる程度には稼げるようになった。

 ただし、なかなかいいパートナーには巡り合えずに今日まで来てしまった。
 何人かの女性や、男性とも付き合ってはみたものの、俺はどんな人にも本気になれなかった。

 俺は、心のどこかで、あの藤の花の下で会った女の子を探していたのかもしれない。

 名前も知らないうえに、二度しか会ったことがなく、しかもその二度とも置き去りにされた女の子なのに。

 騒々しい夜の街で遊んでいても、俺はいつも寂しかった。
 寂しいから余計に飲んでしまう。

 ほぼ真っ暗闇のダンスフロアで身体を圧迫してくるような爆音を浴びながら、俺はどちらが上か下か解らない程度には酔っていた。

 気分が悪くなってきたので、トイレに逃げ込み、いくつか並ぶ洗面台の一番奥で顔を洗った。
 フロアから地響きのように低音が伝わってくる。

 悪友のナンパ目的の遊びに付き合わされて、俺はよくこの店に来ていた。
 男二人連れだと女の子をナンパしやすいのだそうだ。

 俺はナンパには興味はなかった。だいたい、どこの誰かわからないような子とどうにかなろうという発想が俺にはなかった。

「終電で帰ればよかったな…」

 俺はボソリと独り言を言った。
 それと同時くらいにトイレのドアがバンと開き、誰かが入って来た。

 見ると入って来たのは女性だった。
 俺は自分がいるのが男子トイレあることを小便器を目で探って確認した。

 女はツカツカと一直線に俺の方へ歩いてくると、おもむろに胸倉をつかんで来た。

 何をするんだ、と思ってその手を振りほどこうとして、俺の動きが止まった。

 俺の胸倉をつかんでいるのは、あの藤の花の女の子だったのだ。
 ガリガリに痩せていて見る影もないが、間違いない。

「こんなところで何してる?」

 俺は驚いて彼女に言った。

「手遅れになるまえに」

 酒臭い息で彼女が言った。力強く登場した割には、彼女はベロンベロンに酔っ払っていた。

「じいちゃんが死んでしまった。わたしももう、枯れるだけだ。たすけて」

 そういうと、彼女は唐突に俺にキスをしてきた。

 俺はびっくりしたが、酔っていたのも手伝って、彼女のキスをそのまま受け入れた。
 彼女と口づけをしても、まるでセクシャルな感情は湧いてこなかった。

 何故だか赤子に吸い付かれているようなそんな感じだった。

 それに、彼女は心配になるほどガリガリガリに痩せていた。

 彼女の手首に触った時に、そこにためらい傷が幾筋もついていることに気が付いた。
 胸が痛んだ。いったいどんな人生を彼女は送って来たのだろうか。

 俺はキスを終わらせると、そのままトイレから彼女を連れ出した。とにかくこんな場所から一刻も早く出たかった。
 本当ならば、美しい藤の花の下にいるべき人が、こんなところでボロボロになっている。
 俺が連れ出してあげないと…。

 俺は一緒に来ていた友人に帰ることを告げ店を後にした。
 友人は俺が珍しくお持ち帰りをするのかと思ったようだったので、彼女は親戚の子だと適当に言っておいた。
 本当はどこの誰かわからないような子だけれども。

 足取りもおぼつかない彼女を連れてタクシーに乗り込むと、俺の家へと向かった。
 俺の家についても彼女は自分がどこにいるのかわからないほどに泥酔していたので、水を何とか飲ませて俺のベッドに寝かせた。

 俺は寝袋を出して床で寝た。

 俺の酔いはすっかりさめてしまって、いったい彼女の身に何が起きたのか…と朝まで考えてしまった。

 翌朝。日が登っても彼女は起きなかった。

 五月の連休のさ中で俺は仕事が休みだったので、コーヒーを淹れ、二人分のパンを焼いた。
 ちょうどトーストが出来上がるころに、彼女がむくりと起き上がった。

 ぼーっと部屋の中を見ている。
 恐らく自分がどこにいるのかわからない状態であろう。

 俺は温かいコーヒーをベッドまで持って行ってやった。

 俺の部屋にいることがわかっても、彼女は別段驚いている様子はなかった。

「昨晩はその…すまなかったな」

 コーヒーをすすりながら彼女が言った。

 …覚えていたのか…。

 俺は急に気恥ずかしくなって、キッチンの方へとそそくさと退散した。

「トースト、食べる?」

 平静を装いキッチンからベッドの上の彼女の声をかけた。

 俺の部屋にはダイニングテーブルなどはないので、立ったままで俺はパンをかじりはじめた。

 それを見た彼女は無言で立ちあがり、こちらへ歩いて来て、俺が持っている皿からパンを取り上げ、彼女も立ったまま食べ始めた。

 そうして彼女は黙々とパンを食べ、コーヒーで一気に流し込んだ。

「あまり時間がない。行こう」

 俺は状況が呑み込めずに、「行こうって、どこへ?」と答えた。

「藤のところへだよ」

 それで俺は理解し、急いでパンを飲み込むと、出かける準備をした。

 あの村には電車を乗り継いで二時間はかかる。

 俺たちはほとんど会話をしないで無言で電車を乗り継いて目的地へと向かった。
 昨晩ほとんど寝ていないせいで、俺は道中ずっとウトウトしていた。

 本当は彼女にいろいろ話を聞きたかったのだが、なぜかそうできなかった。

 電車はやがて、のどかな田舎へと進み、俺たちは目的の駅へと到着した。

 駅に着くと彼女は少し嬉しそうだった。顔色もマシになったように見えた。

 こじんまりとした無人の駅の改札を抜けて駅から出ると、目の前に小さな商店があった。

 インスタントの食料品や生活雑貨、園芸用日などを売っている店だった。

 彼女はその店に入ると、大きな植木鉢と、ハサミ、そしてシャベルを俺に買わせた。
 何に使うのかよく解らなかったが、俺は彼女の言う通りにしようと決めていた。

 買い物を済ませると、俺たちは手を繋いで村の道を歩いた。

 心地よい初夏の風が俺たちを優しく包んだ。

 俺は初めて彼女に会った時のことを思い出していた。
 あの時もこうして手を繋いで彼女に連れて行かれて、そして置いて行かれたんだ。

 俺は急におかしくなってクスクス笑った。

 彼女が振り返って俺を見た。

「何を笑っている?」

「最初に会った時のことを思い出したんだ」

「ああ、あの時は置き去りにして悪かった。私もまだ未熟だったんだ」

 彼女もふふっと笑った。

「帰るの大変だったけどね」

「すまなかった」

「別に怒ってないよ」

 そんな会話をしながら歩いていると、かつて叔父さんの家があった場所に来た。
 叔父さんの家はもう取り壊されて、見知らぬ新しい家が建っていた。

 ここはもう、知らない人の場所になっていた。

「この村もずいぶん変わった。変わらない場所もあるけど」

 俺が子供のころには鬱蒼としていた例の雑木林は、見る影もなく、ただの荒れ地と化していた。
 そのほぼ中央に、あの巨木が立っているのが見えた。

 遠目で見ても、その木が立ち枯れているのがわかった。

 だがしかし、そこに巻き付いてる藤は少しだが花をつけているようだった。

 俺はたまらず走り出した。
 彼女も俺のあと追って走って来た。

 巨木の元に辿りつくと俺は木の幹に触れた。
 カサカサに乾いて、まるで老人の皮膚のようだった。

 見上げると、昔ほどの量はないが、藤の花が美しく咲いていた。

「植木鉢に土を入れてくれないか」

 後から追いついてきた彼女が言った。

 俺は言われたとおりにした。

 そして、今度は一番立派な花をつけている房の枝を20cmくらいで切って欲しいと言われたのでそうした。
 花を切ってしまうのは勿体ない気もしたけど、俺は彼女が何をしようとしているのか、既に何となくわかっていた。

「真ん中あたりに、その枝を刺して」

 俺は土を入れた植木鉢の真ん中に枝を刺した。

 彼女が俺のカバンからペッボトルの水を取り出して、植木鉢にかけた。
 駅で買った水は自分用ではなかったのか…と俺はその時に知った。

「この土はもう栄養がほとんどないから、肥料もあげないとダメだろうな」

 ボソリと彼女が言った。

「この花を君の家に置いて欲しいんだ」

 小さな薄紫の花に触れながら彼女が言った。
 俺は「いいよ」と言って、元々植木鉢を買った時にもらった袋に、藤が植わっている植木鉢を入れた。

 帰りの電車も俺たちは無言だった。
 それでも俺は充実感で満たされていた。

 家につくとすっかり日が暮れてしまい、昼飯を食べていないことに気が付いた。
 腹ペコだった。

 窓際の風通しのよい場所に鉢を置くと、俺は彼女を家に残して、何か食べるものを買いに出た。

 そして買い物をして帰って来ると、彼女の姿は部屋にはなかった。

 俺は誰もいない部屋で、彼女が置いて行った藤の花をただ茫然と眺めていた。

 …また、置いて行かれてしまった。

 その時だった。窓のサッシがカラカラと音を立てながら開いたかと思うと、ベランダから彼女が姿を現した。

 その姿があまりに美しくて俺は息を呑んだ。

「これから暑くなるから、ベランダにはまだ鉢は置かない方がよさそうだぞ」

 彼女は何事もなかったかのように話はじめた。

 おれはたまらなくなって、彼女の元へと駆け寄り、もう二度と逃がさないとばかりに抱き寄せた。
 昨日はあんなに骨と皮ばかりだった彼女の体が、少しふくよかになったような気がした。

 彼女は驚いて俺を見上げていた。

「どうした。また置いて行かれたかと思ったのか?」

 まるで小さな子に話しかけるような声だった。俺も子どものように、うん、と頷いた。

「心配するな。私はもう君を置いていかないよ。だって藤もこうして持ってきたわけだし」

 俺は再び、うん、と頷いた。

「お腹が空いたな。ごはん、買ってきてくれたんだろう? 一緒に食べよう、ねえ、直樹」

 俺は押入れから昔使っていたちゃぶ台を引っ張り出すと、そこに買って来た食べ物を並べた。
 彼女が初めて自分の名を口にしたことには気が付いていなかった。

 それからまだ、彼女の名前を聞いていなかったことにも。

(おわり)


清世さんの「第二回絵から小説」に参加いたします!


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