不倫と報道

 いつものことだが一度芸能人の不倫が起これば連日連夜報道が繰り返される。不倫の相手方や不倫をされた主人や奥さん、またはその実家などへ取材が行われ、不倫をした本人は村八分となりひたすらに詫びる。

 不倫(不貞行為)に関する報道についてはネットでも様々な意見を目にすることがあるが、それに関し私見を述べたい。

 私の理解では不倫は「良くないこと」ではあるが「犯罪」ではない。つまり刑法上の罪には当たらないと言う理解をしている。

 犯罪じゃないのだから別に良いじゃない、と言いたいわけではなく、「他人がとやかく言うことではない」と思っている。

 不倫に限らず、世の中で「やっても良いこと」と「やってはいけないこと」の境界線は時代によって変動する。そもそも絶対的な善悪の境界線など存在しないので、社会と言う人の集まりの中で境界線を作って区別しているだけだ。それをみんなのルールとして定めたものが法律である。法律と言ってもここでは特に刑法のことを議論の前提とする。

 法律はみんなで選んだ代表者(国会議員)がより集まりルールとしての法律を定める。そしてそれに抵触すれば「犯罪」として処罰があるわけだ。

 なぜ犯罪行為が処罰されるかと言うと犯罪は多かれ少なかれ「人が構成する社会と言うコミュニティを脅かす」行為だからだ。人が魚を捌いても豚を屠殺しても犯罪にならないが人を殺すと犯罪になる。殺される側からすれば命を奪われるのは変わらないが対象が人であるから許されないのだ(器物損壊や動物愛護の観点は一旦除外した。それとて人とは軽重がある話である)。正しいか間違っていると言うことではなく「社会」と言うコミュニティを守るためにここから先は「犯罪」にしておきましょうと設定されたルールだ。この線引きはその時代に生きる人達の価値観によって変わる。

 例えば江戸時代では仇討ちは合法だった(届け出が必要だったようだが)。仇討ちは殺人だ。現代ではどの様な形であれ殺人は原則的に違法だ。正当防衛の様に最終的に罪に問われないこともあるが、内容を斟酌して「許されている」に過ぎない。

 不倫(不貞行為)についても以前は姦通罪と言う罪があり、刑法上で不倫は犯罪だった。ところが現在は廃止となり姦通罪と言う犯罪はない。廃止になったのは憲法違反(違憲)と判断されたからの様だが、直接の理由としては当時の姦通罪が女性だけを罰する罪だったため「男女平等に反する」と言うことだったようだ。それであれば男女平等に罰するように規定すれば良いのだが、結果として廃止された。廃止すると言うことはそこまで犯罪と規定しなくとも良いだろうと言う価値判断があったということであり、「他人がとやかく言うことではない」と思ったからこそ廃止に至ったのだと思う。あくまで刑法上は。

 ここで繰り返すが別に不倫を擁護したいわけではない。社会の共通認識と言うものに可変性があることが言いたいのだ。不倫が犯罪ではなくなったとしても、「良くないこと」であることは同じ認識なのだと思う。誰だってきっと、自分がされたらイヤなのだろうから。(もしかすると不倫されても一向に構わないと言う考え方の人もいるかもしれないが、とりあえず身の回りではそんな人がいないので、一応の一般論として)

 一方で民法上では不倫は不法行為となり、損害賠償の対象となる。

 ほら見ろやっぱり違法だし断じて許せない!と言う御仁もいるだろう。しかし不法行為と言うのは例えばケンカで相手を傷つけたって不法行為になるし、飲食店のドタキャンだって損害が出ていれば不法行為だ。これらは基本的に当事者同士の話であり、回りが口を出したり仲裁したり話ではない。こう言ったことを報道が一件一件追いかけるか?いや追いかけないだろう。つまりこの中で不倫を追いかけると言うことは報道側に別の理由があると言うことだ。

 付け加えると不倫が犯罪でない以上不倫に関する取材行為に公益性は認められないと思料する。そして公益性がなければ報道の自由は当事者や関係者の「取材を受けない自由」には勝てないと私は思う。と言うかこの場合の取材に報道の自由がそもそも当てはまるのかとすら思う。したがって自宅でインターホンを押しまくったり玄関前で出待ちをしたりするのは許されないのではないか。

 夫婦の形や関係性と言うのはその夫婦だけの個別のものだ。不倫の報道を行うのは、邪推かもしれないが視聴者が喜ぶネタで視聴率を稼ごうとか雑誌の部数が稼げるだろうと言った「私益」に関する理由だろうから、報道も不倫を追いかけることに大事なリソースを割かずに世の暴かれざる「犯罪」を追求してほしい。それが報道の本来期待される姿なのではないかと私は考える。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?