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盛岡西廻りバイパスの謎(6)大会控え西大橋が開通[西BP③]

盛岡市周辺で進むバイパス工事の原型となった半世紀前の構想について調べるシリーズ。6回目以降は「盛岡西バイパス」として建設された区間について、着工から全線開通までの出来事を紹介する。

毎回の文量が長くなってきて、更新が億劫になりつつあるため、今回からこれまでの1回分を2回程度に分割する。西BPは上中下の3回を予定していたが、延長する。

本宮から前潟に至る4.7kmのルートとして事業化された西バイパスは、とある大イベントに関連して最初の区間が開通する。それからは、北西側から南東へ道路が伸びていった。本宮にたどり着いた西バイパスは、盛南開発エリアの骨格を形作っていく。いつも通り、バイパス以外の記述が多いのはご愛嬌である。

前回はこちら。

開会式を前に先行整備

1984年、建設省によって事業化された西バイパスは、87年12月に工事に着手された。最初に進められたのは「(仮称)雫石川橋」の建設工事。言うまでもなく、西大橋のことである。橋を含む前潟(西バイパス北口交差点)から中太田(深持交差点)までの2.1kmは92年12月に開通した。

西大橋。橋桁が最近錆びてきたような気がするが、そういう色なのだろうか。盛岡は、直轄国道の橋で東西南北が揃う、珍しい街である。

橋の工事は、平地に道路を造るより時間が掛かるだろう。橋を含む区間が田園地帯の区間よりも先に出来たのは、あるイベントが影響している。

雫石町役場の近くにある「世界アルペン記念公園」。特にここが会場になった訳ではない。

87年10月、岩手県内の民間団体や自治体でつくる「アルペンスキー世界選手権大会盛岡・雫石誘致委員会」が発足し、海外で誘致活動を展開した。同じ頃、盛岡と近郊自治体は98年の冬季オリンピックも狙っていたから、随分と欲張りというか、ノリノリな時代である。

オリンピックは、88年6月1日に国内投票で長野に敗れた。残念がる暇もなく、10日後の6月11日に世界アルペンの投票日を控えていた。盛岡市長も雫石町長も皆、投票会場のトルコ・イスタンブールへ飛んだ。結果として、93年大会開催の栄誉を勝ち取ったのだった。

投票の半年前に着工していた西バイパスは、世界アルペンに合わせて北から先行して整備されたとされる。大会は西武グループの雫石スキー場が本会場となったが、開会式は89年竣工のアイスアリーナ(現・総合アリーナ)で開かれることになっていた。開会式会場と雫石エリアを最短距離で結ぶ役割を果たしたのが、西大橋だったのである。

開会式は93年2月3日、盛南開発地区のアイスアリーナで盛大に開かれた。大会組織委員会会長は当時の西武グループ総帥・堤義明氏。県知事として選手団を迎え入れたのは「盛南開発の生みの親」とされる工藤巌氏だった。開会を宣言したのは、この2年前に眞子内親王(当時)を授かった秋篠宮殿下。93年は佳子内親王がお生まれになる前の年だった。

アイスアリーナはスケート場としての機能を隣接地に建ったアイスリンクに譲り、総合アリーナとして存在している。施設命名権により現在は「盛岡タカヤアリーナ」として呼称される

大会に合わせて、西大橋の他に盛岡市の稲荷町交差点から繋十文字交差点までの国道46号現道が「稲荷前バイパス」として4車線化されたほか、滝沢村の分レ五叉路を回避するバイパス事業「滝沢改良」が完成。国道4号時代の橋をそのまま使っていた夕顔瀬橋も架け替えられ、新田町跨線橋とのクランクカーブが解消した。アルペン大会は、道路を造るお題目にもなったのだ。

仁沢瀬橋付近。繋十文字まで続く4車線道路もアルペン大会の産物である

開発動向見ながら延伸

アルペン大会で一役を果たした西バイパスは、深持交差点から南東へ順次延伸していく。96年には林崎交差点で県道13号盛岡和賀線と交差し、流通センターや花巻方面への「裏の国道4号」との接続も果たした。

ガリバー付近。ここから急に街(市街化区域)が始まる。

西バイパスを前潟から本宮に向かって走ると、県道13号バイパスと交わる「小幅交差点」の手前、最近開店した中古車販売店の辺りから街が始まる。そこまで両脇に田んぼがあった沿線が、急に市街地になるのだ。

この変わり目が、盛南開発地区と別のエリアの境である。地域振興整備公団(現・都市再生機構=UR)が区画整理を行う際は、宅地や商業地の造成と一緒に市道やライフライン等を造ることがある。用地取得の関係もあるだろうから、路線番号2桁の直轄国道を伸ばすにも、UR側との細かい調整が必要だっただろう。

鬼柳交差点。当時は県道16号との交差点だったから、バイパスがここで終わっても明治橋に抜けることができた。ある意味では、工事はこの場所でひと段落ついたのだ。

小幅交差点の東隣「鬼柳交差点」まで開通したのは2001年。本宮地区の横軸道路として「先輩」にあたる県道16号盛岡環状線に接続した。ここから東側は、盛南地区の核心部とも言えるエリアで、区画整理事業の動向を見ながら建設されていったようだ。

00年代前半は、前潟側から順に開通という訳にはいかず、複雑な経緯を辿る。事業化当初に建設すると予定されていた本宮から前潟までの4.7kmが繋がったのは05年12月だった。

この間、02年に本宮交差点から盛岡友愛病院近くまでの3.1km区間が、西バイパスの延長区間として事業化された。南に伸びる国道46号の線を地図を見ながら「なんで46号なの?」と思った方も多いだろう。

本宮から南に伸びる西バイパスをマリオスから俯瞰する

これまで紹介してきた通り、西バイパスはある意味「4号を作りたい本音は有りながら、46号で作ってもらった」道路であるのだ。もちろん、100%そうだとは言い切れないとは思うし、行政はそう言わないと思うが……

本宮から南下する区間も、高架道路の計画変更等で話があるのだが、また長くなってしまうから、次回に取っておくことにする。

第7回に続く。

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