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等身大

 等身大の自分とはなんだろう。そう思うことが最近増えてきている。就職活動で今までの人生を振り返ることが多くなってきているからなのかもしれない。

 等身大の自分で常にいることは難しい。人間は他人に嫌われることや他者とズレていることがバレるのを恐れて生きているため、人前では本来の自分を隠していることが多い。とりわけ親しくない人の前では顕著に現れる。そういう人たちのことを裏表の激しい人というのではないかと考えている。
 
 裏表の激しい人がこの世界には大勢いると思う。これが悪いことだとは思わない。人間は外の世界ではやや無理をして自分を演じ、内の世界では自分の世界を楽しむ。そういう生き物だと思う。

 斯く言う自分は裏表の激しい人なのだろうか。おそらく違う。自分は表と超表で生きている人だと思う。意味が分からないことを言っていると思うので説明する。

 自分は人前では若干無理をしている部分もあることにはあるが、基本的には本来の自分と変わらない。家にいる時も外にいる時も大体ずっと喋ってるし動き回っている。どこにいても大きく自分のスタンスを変えることはない。強いて言えば人前では本来の自分に少し羽を生やしている。だからこれを超表として考えている。

 自分で言うのもあれだが、裏が全くない。というより裏がどのようなものであるのかも分かっていない。
 言いたいことはどんどん言うし、嫌だと思えば素直に嫌であることを伝える。だからストレスを感じることが少ない。唯一ストレスに感じるときは、曲がったことが嫌いなので周りにそういう人がいる時であるが、そもそもそういう人とは親しくならないのでいない。すなわち生きていく上でほとんどストレスを感じることがない。これはかなりの利点だと思う。

 等身大の自分を考えるうえでもう1つ重要なことに性格がある。自分が表と超表でいられるのも性格によるところが多い。
 自分は基本的に明るい。常にポジティブに物事を捉えようとし、ネガティブ思考にならないように努めている。下を向いて歩いたり不平不満を言わないようにしている。たまに文句を言ってしまうが、そのときは冷静さを欠いているため落ち着いた時に反省している。

 また最近は優しくなったと思っている。小学生の頃はとにかく怒りっぽかった。家では母親の権力によって弾圧されていたが、クラブでは邪魔な人がいると食ってかかっていた。自分のことを怖い人と思っている人も少なくないのではないか。
 ただ、中学生・高校生を経て全く怒らなくなった。怒らなくなったわけは、怒る必要性がないことに気がついたからだ。怒るという行為は非常に疲れる。そんな疲れることをする意味もないし何も思わなければいいことに気づいた。
 2つ目の理由は人に興味がなくなったからだ。全く興味がないということはないが、自分のことに精一杯で、他人のことをいちいち考える時間がなくなっていった。だから怒るという気持ちすら浮かばなかった。

 大学生になって他人にも目を向けられるようになったが、怒ったことは一度もない。むしろ自分のやりたいようにやればいいじゃん、と思うようになってきた。他人を否定して頭ごなしに怒ることはスマートなことではないし、お互いに嫌な気持ちを残すだけだ。だからこれからも怒ることはないと思う。ただ誰でもいいので自分のことを叱ってほしい。怒られるのが好きだから。

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