図工と美術が嫌いすぎてズル休みしていた僕が、デザイナーになっておもったこと

小学生の時の、図工の授業でつくったモノ。

あれはなんだろう。ボックスというかラックというのか…

例えるなら、おばあちゃんの家で、醤油とかお箸とかふりかけとかを並べておいて、ご飯を食べる時にだけ登場するあの謎のラック…カトラリーケース!?

ああいうのを作ろうよって授業が始まったんですよ。各々が好きなコンセプトで、好きなように作って、絵を描いたり色を塗っていくって授業。多分週2時間で合計6時間分くらいの授業だったのかなぁ。忘れましたけど。

もうね、思いつかないんですよ。どんなラックにすればいいのか。授業全体の半分がすぎて、みんながガリガリ作業してる中で、自分はただぼーっと考えてただけ。全く手を動かさずに。他の人の作品をみて、進んでいることを羨ましく思っていました。「◯◯さんは絵がうまいからこういうのもうまいんだ〜」「あ〜こういう無難な選択をすれば成立するのか〜」「この人は独特なもの作ってるけど、本人すごく楽しそうだな〜」とかってずーっと考えて、先生に声かけられても着手すらできなかったんですよね。

思いついてはいるのです。魚みたいにしようかな〜とか、秋をテーマにしようかな〜とか、だけどそのアイデアが脳内ですぐボツにされちゃうんです。もっといいもの作れるはずだって。この授業に沿ったものを作れるはずだって。強迫観念にとらわれていました。だけど実現できなかった。それが嫌すぎてズル休みもしました。珍しすぎるでしょ、図工が嫌すぎて学校休む小学生。

結局さ〜、適当に海っぽく塗って。魚とか海藻を描いて、それっぽくしました。だけどね〜、気分はどん底でした。作った物に対する愛がないし、出来上がったものに全く納得いってなかったんですよね。周りに見せるのが恥ずかしくて、早く終わって欲しいってずっと考えました。

いざ友達にみせると、みんな自分の作品のことばっかり考えているから、周りの人の作品についてそこまで評価しないんですよね。「良い」も「悪い」も判断しないんだ〜。あー、人の作った物って案外そういうもんなんだな〜って気づきました。

思い返せば中学生の美術の授業でも、似たようなことが起こっていました。粘土で銅像を作る授業で、あまりにも自分が作った物が納得いかなくて、その粘土をこっそりカバンにしまって、家に持ち帰って夜中まで作業していました。結局最後まで納得いかなかったんだけども。

なんでこんな話を書いているかっていうと、この間、ロゴを制作したときに、この小学校の図工の授業とか、中学校の美術の授業の時にすごく似た感覚が襲ってきたんですわ。コンセプトは決まっているけど、自分が作る物、作ろうとしているものを、脳内でどんどんボツにして、誰かにとっていい物をつくることができない状況で、この上ない自己嫌悪に陥っていたんです。

いまは大人だから、それをそのまま誰かに相談したり、気分転換をする方法を知っていて、なんとか納得のいく複数案を提示できたんだけど、「あれ、本質は変わってないのかもな」と思いました。

この感情を思い出して「自分ってもしかしたらデザイナーにすげえ向いてるのかも」と、謎にポジティブに捉え始めているのですよね〜。

だって珍しいでしょ。図工の授業で「自分がただ作りたいもの」じゃなく「この授業に沿っていて、より良い物」を作ろうとしている小学生。めっちゃデザイナーじゃん。それが叶わなくて、学校を休むくらい自己嫌悪に陥るって、自分が作るモノへのこだわりというか、熱量が他の生徒と段違いだから発生した苦悩だと思ったのです。

そんな過去を頭の片隅に抱えながら「自分は美的なセンスがない人間だ」ってラベリングしていた気がします。そういう人多いかもね。図工や美術の授業での失敗が、そういう思考に直結していたんだと思うけど、そもそも絵の練習もちゃんとしてないし、勉強もしてないから、今思えばできなくて当たり前なんですけどね。

今の自分に美的なセンスがあるかは置いといて、誰かのために何かを作ったり、自分がつくったもので自分をまとめて評価してほしかったり。

技術とかではなく、考え方に関しては、結構センスあったのかな〜と気づけた案件でした!✌️

飢えをしのがせていただきます。