他者についての論考

第一:anderesな他者

1.単なるanderesな他者(他-人)と、fur mich sind sinnな他者(他-者)の区別

前の論考はこのふたつを混同して訳が分からなくなっていた。というよりも、fur michな他者に対するものをanderesな他者にやってしまうのは単なる忘我であったり自己の喪失である。他者に「対して」何かを為せるのは、どこかに「主-客」もとい「我-他」の構造が規定されているからであり、やはり「我」というものが規定されていないと「私にとって」他者はありえない。人間の認識が主観的に超越論的であり、他者に対してもそういう関係にあるという「存在とその認識について」から見れば、やはり「私が」という構図は崩してはならないだろう。ただし、ここで示される「私」とは普遍的な一般としての「私」それぞれであって、個別的な私を指しているのでは無い。「存在とその認識について」の学術的蓋然性は置いておいて、ここではあくまで「存在とその認識について」の続き物としての他者論を考えることにする。となれば、anderesな他者とfur mich sind sinnな他者をそれぞれに規定しておく必要がある。

2.anderesな他者の規定

anderesな他者はそのまま単なる他人である。日常通俗的な範囲において関係する他者一般であり、なおかつそういった形(日常通俗的な範囲でそれぞれに関係する)で関係するそれぞれの個別の他者も指す。例えば、職場での上司同僚部下だとか、学校での先輩同級生後輩とか、営業先とか取引先の担当者だとか、レジ打ちとかそういった形で関わる他者である。
これはやはり「私に対して他人である」という構図がある。というのも私にとって「他人である」ためには私が規定される必要がある。
例えば、会社で「私」を離れて外部的な役職、課長だとか部長だとか、といった関係で全体的に人間関係を捉えてみると、そこは私も他人もひっくるめて単純な従業員、もといひとつの単子として、私も他もない形で存在している。そのため、私にとって他人であるため(というよりも、他人であるということはそのまま私にとって他人である、ということである。)には、私が規定される必要がある。
anderesな他者は、単純に「私と違う」ことで他人である。「存在とその認識について」の媒介論で言えば「他であることによる」他者であると言えるだろう。他であること、によって私によって私にとっての意味を与えられ、私にとってそういった意味を持つ他人として存在し、媒介するような他者である。言い換えれば、市民社会における他者、「他人のことを尊重しましょう」と言われる時の他人とはこういう他人だろう。もちろん、単なるanderesな他者に対しても道徳というのは必要である。
というのは、社会において、ほとんどの場合において関わる他者とはanderesな他者であって、このanderesな他者に対しての道徳を無視する、ということはそのまま社会の崩壊を意味する。あくまで、ここで話されているのは普遍的な形での道徳の無視である。

3.Anderesな他者に対する道徳

加えて、このanderesな他者に対する道徳は、この議論からいって、社会的に規定されたような道徳として規定されることになるだろう。社会的に規定されたような道徳、とは端的にかつ通俗的に言えば、「モラル」である。社会に対して私は、多数の他人に対して関係する、という形で関係している。だから、そういった形で社会に関係する限りにおいて、道徳とは私と多数の他人に対する良好な関係を構築維持するために規定された理念、あるいは義務として構築されている。そしてここで記述された「私」だとか「他人」というのはあくまで普遍的一般としてのそれであるため、これらの関係は、普遍的な私と普遍的な多数の他人に対する一般的な関係として定立されている。つまり、どの私にも、どの他人にも普遍的に、かつ同様に通用する形での関係の規定が道徳である。

4.anderesな他者に対しての世界像の共有

さて、「存在とその認識について」における「世界像の共有」において、「知的直観と理性においては、言語によって世界像が共有される。ただし、知的直観においては言語は準理性として働く。」という命題が提示されたが、この言語作用が働く領域、というのはanderesな他者と、我の間に存在する。
というのも、件の論考で示された言語作用においては、外化と、その受取りとの間で「内容に差異が生じる」という消息が示されたのだが、この差異はまさしくanderesな他者と我が「anderes」な関係にある、ということから生じる消息であるからだ。補足として、この「理解」の作用においては、世界像の共有は世界像の全体としてではなく、世界像のうちのそれぞれの事態に対する意味として共有されている。
さて、「存在とその認識について」では理解概念を言語にのみ限定したが、恐らく理解は拡張されるべきである。この場合、拡張された理解概念とは、「私に対して関わってくる他人の言動に対して原因の存在を想定する」ということであるだろう。この場合、私は「私としての他人」として、この他人を理解し、そして「他人にも何かしらの理由があるのだろう」というひとつの理解を得るのだ。ただし、この「理解」においては根本的な他人の言動の原因を明かすことは出来ない。というのも、先にも言ったように、世界像同士の共有という形での理解においては、私と他者との間では内容に差異が生じ、互いに互いの内容に対して接触が不可能であるからだ。この「互いの内容に対して互いに接触不可能である」という構図は言語によらない理解にも適応される。であるから、他人の内容に属する「根本的な原因」というのも私にとってはアクセス不可能である。
では、他人に対していかにして理解が可能であるか、と言うとやはり先の「原因の存在を想定する」ということに留まるだろう。私による他人への理解に限界があることを自覚して、その限られた理解を元にして他人と付き合い、その理解に対して異なる言動が現れたらそれに応じて他人への理解を改める。この繰り返しが他人との関係であるだろう。

5.歓待はいかにして可能であるか

歓待とは理念として私がanderesな他人に対して行なう行為である。というのは、他人への理解においては「原因の存在を想定する」というのが本質的な要素ではあるが、それでも「どうしても原因の存在を想定できない」という事態は生じうる。こういった事態は何も特殊な事例としてのそれではなくて、どの他人にもありうるような事態なのである。社会が安定的に維持されるためには、こういった事態を「ある程度」許容する、という意味での歓待が必要となる。
歓待とは、相手としての他人を信頼することである。というのも、他人への理解が成立するためには、まず他人の言動に「原因が存在する」ということを前提しておく必要がある。しかし、先にも言った通り他人の言動の根本的な原因は私には把握不可能なものである。けれども、社会が安定的に維持されるためには他人への理解、「言動に原因が存在する」ということを想定しておく必要がある。そこで、信頼としての歓待がまず、必要となるのだ。
しかしながら、この歓待においては、他人が私を傷つける場合があるだろう。悪意によるものも、そうでないものも両方ともありうる事態である。そもそも、歓待は他人もまた私を理解するという前提(他人もまた、私を歓待する)を信頼することで成立する。この関係性は、道徳における私と他人との関係性に類似している。つまり、歓待とは「どの私も」「どの他人も」私を歓待し、他人を歓待する、という前提があって初めて成立する事態なのである。さて、こう言った前提が成立しない場合、他人との関係は暴力によって規定されることとなる。両方に対して、暴力によって両方を規定する。こういった場合、暴力に規定されている側は、歓待を行う必要は無い。むしろその規定から逃亡する必要がある。なぜならば、歓待とは相互に歓待が成立することを前提としているため、片方においてその前提が崩壊している場合、暴力に規定されている側が歓待を試みようとも、歓待は成立しない。歓待は相互の良識を信頼することによって初めて成立する。

第二:他人あるいは私にとって他人と私に対する真なる理解は存在するか?

心理学のモデルに、「ジョハリの窓」というものが存在する。これによれば「私による私の理解」「他人による私の理解」「私と他人による私の理解」「誰にも理解されていない私の理解」の4つの象限が存在する。このモデルは、普遍的にどの私にも成立するし、それに従って、普遍的にどの他人にも成立する。となれば、私と他人において、それぞれにとって真なる理解、というのはなんであるのか。

1.「私による私の理解」-「私による他人の理解」

この立場によれば、私にとって真なる理解は私による理解であるし、私にとって他人の真なる理解(あるいは真であると考えられる理解)とは私による理解である、ということになる。しかし、この「私による理解」において私となっているものは普遍的な私であって、単なる個別的な私が、私を理解し、他人を理解するのでは無い。というのも、この立場が正しいとすれば、他人にとって見れば、「他人という私による他人という私の理解(つまり他人による他人の理解)」と「他人という私による私という他人の理解(つまり他人による私の理解)」もまた正しいということになり、背理が生じる。

2.「他人による私の理解」-「他人による他人の理解」

では、他人による私の理解と、他人による理解が、真なるものとして理解されうるものなのであろうか。このような立場に立ってみると、私にとって真なる理解とは、他人に理解された私である、ということになるのだが、このことは直ちに「他人によって私が規定される」という定理に直結する。しかしながら他人が他人として規定されるためには、まず私の存在が規定されている必要がある。加えて、この構図を「他人」の方から考えてみると、「私という他人による他人という私の理解(私による他人の理解)」と「私という他人による他人という私の理解(私による他人の理解)」もまた真なる理解としての他人への理解であるとなる。
さて、以上の議論からわかる通り、このふたつの理解を真とする考え方は、それぞれ背理的に結びついた関係なのである。であるから、このどちらかの考え方が否定されると、ただちにもう片方の考え方も否定されることとなる。「私による私の理解」-「私による他人の理解」については、私による他人の理解が、そもそも不完全である、ということによって否定される。理解というのは言語による世界像の共有であるのと同時に、言動に対して原因を想定するということでもあるのだが、前者における理解は「存在とその認識について」において記した通りに、外化とその受け取りに際して異なった内容を持つに至るのである。だから、私による他人の理解とは、私による他人としての他人の理解ではなくて、私としての他人の理解である。したがって、私による他人の理解とは、他人そのものに対する理解ではない。続いて、「他人による私の理解」-「他人による他人の理解」については、「他人による私の理解」を否定することによって否定される。
「他人による私の理解」とは、言い換えれば「他人という私による私という他人の理解」であり、さらに言い換えれば「私による他人の理解」となる。であるから、先の「私による他人の理解」が否定されたように、「他人による私の理解」もまた否定される。
しかしこうやって否定しても、他人を否定するという意味での独我論は否定されないどころか、逆にその勢いを増すように思う。「では、私による他人への真なる理解というものは意識のうちには無いのだから、やはり他人への理解とは単純に私における他人への理解であろう」と主張することが出来る。しかしながら、単純に「私における私による他人への理解」のみが私の意識のうちでの他人への理解では無い。というのも、他人は私による理解の外側からやってくることがある。例えば、ある人が「トマトが好きだ」とする。私はトマトが嫌いで、なぜその人がトマトが好きなのかが分からない。しかしながらその人がなぜトマトが好きなのかを考えることが出来る。私はその人がトマトが好きである理由を「その人にとってみたら美味しいからだ。」と考える。しかしながらその人はトマトが好きな理由を「まずいから好きだ」と答える。こうなると、「彼はトマトが美味しいから好きだ」という私による他人への理解が否定されて、新しい他人への理解、「彼はトマトがまずいから好きなのだ」という理解が現れることになる。これでもなお、「それでもなお『彼はトマトがまずいから好きだ』という理解は私にとっての他人の理解では無いのか」という反論が生じてくるだろう。しかし、最初の私にとっての他人への理解とは「彼はトマトが美味しいから好きだ」という理解であって、新しく作られた「彼はトマトがまずいから好きだ」という理解は彼の発言、他人による他人の理解から生じた発言だろう。であるから、この新しく生じた理解は、「私にとっての他人への理解」にあるにしても、「他人にとっての他人への理解」という外的な他者の存在があって初めて成立するような理解である。

3.「私による私の理解」-「他人による他人の理解」

先の議論においてわざと否定されずに置かれていたふたつの領域である、「私による私の理解」と「他人による他人の理解」が真なるものとして考えられるようになる。この場合においては、他人の場合においても「他人による他人の理解」-「私による私の理解」と単純に項目が逆転するだけに留まり、何かほかの関係においても何かしらの背理的な関係にある訳でも無い。ただし、この理解の方式においては、「誰にも理解されない私/他人」の存在が忘れ去られている。たしかに、「誰にも理解されない私/他人」が真ではない、とすることも出来る。というより、ここで問題にされているのは、「何が真なる理解なのか」であって、この「誰にも理解されない私/他人」とはそもそもの前提として「理解されない」のだからこの議論において意味をなさない、と考える方が妥当であるように思われる。しかしながら、「理解」についての定義を考えてみれば、「他人の言動に原因があると想定する」ということであった。そして「理解」が私に対しても行われるものである以上の、この「他人」は「私」に言い換えることが出来る。さて、この理解についての定義に沿ってみれば、言動には原因がある、と想定する必要がある。しかしながら心理学における研究が示すように、人間とは自身に対して自覚的、あるいは理解可能な範囲で自らの言動を把握することができない場合がある。つまり、私による私の理解は、私の言動の原因を必ずしも想定することができない、という場合もある。「私の言動を、私でも理解できない」という状況が示すごとく、私による私の理解も、私にとって真なる理解では無い。例えば、朝起きた時、自分が道路の真ん中に寝そべっていたとする。私には前日の記憶が無い。しかし私がここに寝そべっているのは確実に私の言動である。しかし私の言動の原因は確実なものとしては理解できない。この場合、ただ「酔っ払って道路に寝そべってしまったのだろう」という推測が、私の言動に対する理解として存在する。ただしこれが推測である以上、確実なるもの、真なるものとしての私よる私の理解、とは言い難い。そしてこの消息は、私を「他人という私」に置き換えてみても通用する。

第三:fur michな他者

1.fur michな他者の規定

fur michな他者とは、fur mich sind sinn、私にとって意味のある他者である。単なるanderesな他者とは異なり、個別的な私の出来事に関わってくる、個別的な他者としての他者である。そしてこのfur michな他者として関わってくる他者は、私にとって本質的なものとして規定される。というのは、この他者は、私が私であるために、私が規定されているところのものとしての他者として規定されている。無論、私が規定されていなければ他者というのもありえないのではあるが、fur michな他者は、私にとって本質的なものとして把握されるのである。媒介論で言えば「私であることによって」他者である。例えば、失恋の相手だとか、生き別れた兄弟や恋人、親族といったものがそういう他者として挙げられるだろう。このような他者は、「私であることによって」他者であるが、他者であるから、まさしく「他である」。ところで、fur michな他者とは、個別的な他者であるから、他の私にとっては、私である私と同じような形での現れ方をしない。あくまでfur michな他者とは、私にとって意味のある本質的な他者であるからであるため、他の私にとっては本質的な他者としては現れない。

2.fur michな他者と私の関係

さて、fur michな他者自体は現にあるものとしては現れない。というのは、個別的に本質的であると規定されるような他人、例えば恋人や親友、と言ったもののうち、現前している他人、目の前に存在している他人としての恋人や親友はあくまで「他人」である。こういった他人がまさしくfur michな他者であるのは、私にとってその他人が個別的に本質的であると、内面的に規定されているからなのである。つまり、fur michな他者とは、本質的には喪われているもの、ここにはいないものとして現れてくる。
例えば、恋人に長い間会えない、という時、私は他者の存在を確信する。今ここにはいないもの、としての恋人たる他者を確信するのだ。もっと深刻な事例で言えば、死んだ女、喪われた女としてその恋人が現れている場合である。この場合、私にとってその恋人とは、私に対して責めを与える他者である。さて、目の前に恋人がいる、という時私が確信しているのはfur michな他者ではなくて、fur michな他者としての側面を持つanderesな他人である。親友や恋人などと私の間に行われる理解作用およびそういったrelationな関係の構築は、あくまでもanderesな他者との間に行われる。
fur michな他者は、私にとって直接的な接触が不可能である他者である。他人においてはrelationな関係において、接触が可能であるが、fur michな他者はそういった接触が不可能である。ならば、私にとってfur michな他者は関わりがないものなのであろうか。そうではなくて、fur michな他者が個別の私にとって本質的に規定された他者である以上、fur michな他者は私に対して関係する。ただし、その関係の仕方は喪失・不在という形で関係してくる。
fur michな他者は私に対して喪失・不在という形で関係するということが明らかとなったが、fur michな他者に対して私が負うもの、としての責任がある。

3.私がfur michな他者に負う責任について

fur michな他者に対して私が負う責任は、私がfur michな他者に対して関係する関係のうちの一つである。ここで私が負う責任とは、fur michな他者そのものに対して負う責任である、と言えよう。私が負う責任は、ある種の義務であり、私が責を負うのは、その義務を果たさなかったことに対してである。義務の未遂による責とは、例示すれば「なぜあの時助けられたはずなのに助けなかった」だとか、「なぜ幸せにしなかったのか」と言ったような形で現れてくるのである。

4.私にとってfur michな他者は一般的であるか

fur michな他者を「存在しない妄想」として捉えることは可能である。単純に、「そんなものは私が勝手に考えた妄想である」とも言えるかもしれない。しかしながら、「私は私だけで私である」というような考えは現実的なものでは無い。というのは、真に私は私の力だけで、私としてあったかということである。というのも、「私」が私として成立するまでには、様々な外部からの影響があったであろう。赤子は自分だけでは自分を発見できない。私が私として定立されるためには、やはり「他」が規定されている必要がある。(それと同時に、「他」も私が規定されている必要がある。)、それだけではない。例えば個別な「私の」親は、私にとっては(fur mich)親であり、否定的にしろ肯定的にしろ何らかの形で「意味」を持っているが、ほかの私に取ってみれば、彼/彼女らはなんの意味も持たない、単なる「他人」である。この規定が観念的にしろ実在的にしろ、肯定的にしろ否定的にしろやはりなんらかの形で、私にとって親は個別的な意味を持つ。であるから、fur michな他者は存在する。

5.他者に負う責

さて、このような責めを、「妄想」や、「空想」として捉えることも一応は可能であるし、むしろ「客観的に」見るのであればまさしくそうである、と言える。だが、こうやって妄想や空想として断ずることは、その責めを負っているものの主観に対してはなんの慰めにもならないし、なんの効果もない。こうやって断罪され奥底に抑圧された他者の責は、抑圧されているうちに不調和として現れてくる。ある種のトラウマ、とも言える現象だろう。このように抑圧によって責を忘れ去ることは、消極的な関係として排除しなければならない。他者に対する責に対して、私が積極的に関わるためには、この他者に対する責を把握する必要があるのだ。他者に対して私が何を行ってしまったのか、私は何をすることが出来たのか、そういったことを私が考えること。過去の他者と私に関する出来事に対して考えることとしての悔恨が、私に要請されているのである。悔恨とは「過去の出来事に向かって考えること」であるが、決して考えることによってその出来事がもう一度繰り返されるされるわけでも、喪われたfur michな他者が取り戻される訳では無い。喪われたfur michな他者が喪われた、既往としての過去が感覚として反復されるだけなのである。このような行為は、客観的に見れば「未練がましい」だとか「過去のトラウマから逃れられていない」と言ったような非難を持って語られるべき行為だろう。しかし、悔恨の対象となるような出来事とは、私にとっては「忘れてはならない」ものなのである。無論、この出来事を忘れてしまう、ということも可能であるし、そうした方が私にとっては健康だろう。だが、anderesな他人に対する歓待が可能となる前提を考えてみれば、他人と私の相互の信頼が、歓待を可能とする。つまり、他者が悔恨を求めている時、anderesな他人に対して私が歓待する時と同じような関係が働いている。つまり、ここでfur michな他者に対する責を忘れ去ってしまう、というのは果たして誠実と言えるのだろうか。
加えて、fur michな他者とは私に対して本質的に規定されている他者である。私に対して本質的に規定されている、という消息からして、私が私としてあるためには、fur michな他者の存在と、それに対して負う責を把握することが必要なのではないか。
それに、悔恨とは単なる過去への逃避ではなくて、未来に向けて発展的に私を展開していく、未来に向けて肯定的に私としてある、ということの契機ともなる行為なのである。したがって、悔恨を「過去への逃避で、グズグズとべそをかいている」というような批判は成り立たない。たしかに、悔恨単体では過去に向けられたものではあるが、この悔恨はある契機によって未来に向けたものとなるのである。

6.悔恨が未来に転ずるとき

悔恨が未来に向けたものとなる契機とは、形見である。形見とは、fur michな他者、喪失・不在として関係する他者が私の元に残した何かしらの存在者である。形見は記憶であったり、アイテムだったり、テキストや言葉であったりするが、そのどれも、fur michな他者が残したもの、として考えられるならば、形見である。形見とは、私にとって他者の不可分の一部であり、その存在がそのまま他者の存在の証を示すような存在者である。さて、悔恨がむける対象は先にも述べた通り「過去」のものであって、今は無いものとして、悔恨の対象となる。悔恨の対象は過去のものであるから、現在において悔恨の対象となる他者に直接的に関係できるようなものは無い。こういった意味でやはりfur michな他者とは、現存・実在としてではなく、可能性としての存在者に留まる。悔恨は直接的に他者に対して関係しようと試みるのだが、他者は喪失・不在として否定的に関係する存在者であるから、この試みは積極的なものとはならない。しかし、悔恨が形見を通じてそのような他者と間接的に関係しようと試みる時、悔恨は未来の方向に向けられる。というのも、私の悔恨が形見を通して他者と関係しようとする時、私はその形見を未来に向けて遺そうと努めることによって、fur michな他者との関係を維持しようと試みるからである。無論、他者とは過去の存在であるから、他者自体を未来に向けることはできない。しかし、他者の残した形見を未来に遺す(すなわち、その形見を存続する)ことを試みることによって、他者の存在を間接的にかつ、形見を通して未来に向けるのである。そうなると、未来の方向に向けられた悔恨は、希望となる。

7.希望について

希望とは、ここでは「過去の存在である他者との関係を保持しつつ、その存在の証を未来に向けて存続させることによって自らを積極的に展開しようとする意志」のことである。希望においては、fur michな他者の存在は、悔恨を招き、私に対して責めを負わせるものとしての過去的なものであると同時に、未来に向かって自らを無限に高めていこう、という意志をもたらす未来的なものでもある。ここで肝要なのは、希望が単なる喜びや充足としてのそれではなしに、私に対して向けられた責めを保持したまま、私の意識が未来に向けられている、ということである。他者に対して負う責は、fur michな他者との関係において本質的な要素であって、この関係を構造はそのままに、肯定的・積極的な方向に向けようとする意志が、希望なのである。端的に言えば、「ああすれば良かった」という後悔が、「次からはこうしていこう」という希望に転換するのである。この希望は、あくまで他者との関係を維持することによって、そうであり続けることが出来る。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?