ウマ娘の精神分析 第4章 ライスシャワー -私のせいで、みんなが不幸になるの-


●実在馬
 
サラブレット オス 黒鹿毛 
 
1989年3月5日 - 1995年6月4日
 
「ライスシャワー」の名は、結婚式で、新郎新婦に、参加者がお米(ライス)を降り注ぐセレモニーに由来します。「子宝に恵まれるように」「食べるものに困らないように」という意味があります。
 
ミホノブルボンのクラシック(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)三冠を阻止、メジロマックイーンの天皇賞(春)三連覇を阻止と、記録のかかった優勝候補とされる馬を、ここぞという大レースで破ることを繰り返し、敵役(ヒール)としての評価を受けます。
 
更にそのレースを最後に引退する予定だった宝塚記念で骨折し、レース場でそのまま安楽死させられた悲劇の名馬として語り継がれています。
 
「黒い刺客」「レコードブレイカー」の異名を取りました。
 
優勝した菊花賞・天皇賞(春)はどちらも3000メートル以上の距離だったため、純然たる長距離向きの馬であるとされていました。
 
通算戦績:25戦 1着5回(うちGⅠ3回)、2着5回、3着2回。
 
ほとんどのレースの騎手は的場均。
 
 
●ゲーム・アニメの声:石見舞菜香
 
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 紺と紫の勝負服。頭にも紺の小さめの帽子を斜めに載せています。帽子と胸元には、薄い青のバラの花をひとつずつ飾っています。
 
また、短剣を腰に下げており、「刺客」を意味します。
 
 
「ライスはみんなを不幸にしちゃうダメな子だから」というのが彼女の口癖です。
 
道を歩いていて赤信号ばかりになるのも、雨でグラウンドがぬかるんでしまうのも自分のせい。幼い頃は、一緒にいる子がころんだり、靴紐を切ってしまったり、鳥の糞を頭に落とされるのも自分と一緒にいるからだと思いこんでいました。
 
彼女は家に引きこもって、ひとり本を読む生活に入ります。
 
出会ったのが「しあわせの青いバラ」という絵本。
 
絵本のあらすじはこうです。
 
バラがたくさん植えられた広い庭がありました。色とりどりのバラの花が、道行く人たちに幸せを与えていました。
 
そこに、ある日、こつ然と青いバラのつぼみが生えてきたのです。
 
人々はそれを、「不幸の花だ」「気味がわるい」と口々にいいました。青いバラ自身も、「ボクはダメなお花なんだ」と思い込んでしまいました。つぼみはだんだんしおれてきました。
 
そこにひとりの青年が現れました。
 
「素敵だ。ぜひ買い取らせてください」
 
青いバラの苗は、植木鉢に植え替えられて、青年の家の窓辺に置かれました。
 
青年は、毎日バラに声をかけて水をやりました。
 
見事な青いバラが咲きました。
 
窓辺を通りかかる人も、幸せな気持ちになりました。
 
幼いライスは、その絵本に心救われる思いがしました。
 
ちょうどその頃、母親が幼い彼女をレース場に連れ出しました。
 
広いレース場の人々の喧騒にライスは驚きましたが、レース場を走るウマ娘たちの輝かしい姿に一気に虜(とりこ)になりました。
 
そして、ウマ娘たちの活躍に、観客たちが幸せそうにしているのを見て、ライスは、自分もウマ娘になったら人々に幸せを与えられる存在になれるのではないかと夢想するようになりました。
 
しかし、長じてトレセン学園に入学した彼女は、専門家たちからは素質があると言われ、夜遅くまで練習に励みながらも、メイクデビューのレースに出ることに、ひどく臆病になっていました。
 
実際にレースに出てしまったら、自分が人を不幸せにする存在であることが証明されてしまうのではないか?
 
彼女の前に現れたトレーナーは、見るに見かねて専属契約を結ぶことを提案します。
 
彼女は喜んでそれを受諾しますが、いざ初レースの当日になると、寮の空き部屋に閉じこもってしまいます。
 
「トレーナーさん・・・」
 
と言葉を漏らしながらも。
 
それに気づいた、天真爛漫なハルウララは、トレーナーを、本来男子禁制の寮へと、寮長ヒシアマゾンの特別許可をもらって連れていきます。
 
トレーナーの、きっと大丈夫だから一緒にやろうという言葉に勇気づけられて、彼女は部屋から出てきます。
 
「ひとつお願いがあるんですけど。トレーナーさんを、これから〈おにいさま〉と呼んでもいいですか?」
 
(このゲームは、始める時にゲームをする人が性別を選ぶシステムになっていますが、女性で登録すると「おねえさま」と呼ばれることになります)
 
トレーナーは彼女をレース場に引っ張っていくようなことはしません。ただレース場で彼女が来るのを待っています。
 
当日、果たして彼女はレース場に現れます。非常に緊張しながらも。
 
そしてしっかりとレースを走ります。
 
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ライスの、まるでこの世の不幸はみんな自分のせいだ、というとらえ方は、ある意味で度が過ぎた思い込み以外の何者でもありません。
 
単に「自分に自信がない」というのとも違うと思います。自分のことを、人に迷惑をかける存在であるというのを通り越して、自分はいつも人を傷つける、「加害者」にしかなれないのではないかと恐れているように思います。
 
イギリスの女性精神分析家に、メラニー・クラインという人がいました。
 
クラインは、赤ん坊は、最初、自分の中に快感が生じると、それは「よい母親」が自分によい乳房を与えてくれているものと捉え、逆に、自分の中に不快感が生じると、「悪い母親」が、自分を迫害して、悪い乳房を差し出しているものとして空想していると考えました。
 
そして、この「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であると赤ん坊は最初気づいておらず、さながら世界を天国と地獄のように体験することを行ったり来たりしていると考えたのです。
 
この段階のことを、クラインは、難しい言葉ですが、「分裂的-妄想的態勢」と名付けました。
 
さて、赤ん坊が少し成長すると、別人だと思っていた「よい母親」と「悪い母親」が同一人物であることに気づきはじめます。
 
ところが、赤ん坊はまだ空想の世界を通してしか外の世界と接していませんから、「悪い、迫害してくる母親」に対して自分が反撃する攻撃性が、実際に「よい母親」を「破壊」してしまったのではないかという妄想にとらわれます。
 
こうして、赤ん坊はひどく落ち込んでしまうと、クラインは考えました。この発達段階のことを、クラインは「抑うつ態勢」と呼びます。
 
もっとも、現実には、再び自分を愛してくれる良い母親が繰り返して立ち現れるものですから、赤ん坊のこうした思い込みは次第に解消され、自分の親を、嫌なところもあればいいところもある「一人の人間」として認識できるようになっていくわけです。
 
少し難しい話をしましたが、ウマ娘、ライスシャワーの場合、この「抑うつ態勢」にまだとらわれている側面が強く、自分に接してこようとる人に対して迫害的な存在であり、自分は皆を傷つけるばかりだ、みんなを「壊して」しまうと思いこんでいる面が強いというとらえ方もできるかと思います。
 
これが別にライスシャワーが今も赤ちゃんだということではありません。クラインは、人は幾つになっても「分裂的-妄想的態勢」と「抑うつ態勢」を行ったり来たりするものだと考えています。
 
自分が心地よい気分でいられる時は、景色まで美しく見え、世界はバラ色となり、人はみな親切だと思えます。
 
一転して、自分の調子が悪い時は、降る雨が自分を責め立てているとすら感じられ、まわりの人間が陰口を言っているのでないかと邪推しがちではないでしょうか(以上、分裂的-妄想的態勢)。
 
また、少しでも自己主張すると、それだけで、相手を傷つけ、だめにしてしまったのではないかと落ち込むこともあるでしょう(抑うつ態勢)
 
ライスシャワーの母親の場合には、閉じこもっていた彼女をレース場に連れ出す時、思いやりからそれをしていたことは疑いもないですし、おそらく普段も、愛情あふれる母親だったと思われます。
 
ゲーム内でのライスの感情の起伏の激しさからも想像できますが、幼い頃のライスは、ただ大人しいというより、敏感で、傷つきやすく、すぐに癇癪(かんしゃく)を起こすような子供だったのではないかと思います。だからそういう癇癪で、母親を「破壊」しているのではないかという空想にとらわれた。
 
そして、そうした感じ方は、自分と親しく接してくれる人みんなに「投影」され、自分は人を傷つけ、不幸しかもたらさないと思いこんでいたわけですね。
 
ここで大事になってくるのは、人が、受け身に「愛される」だけではなくて、自分からも人に「愛情を与える」存在になれるかどうかです。
 
ライスにはその夢がありました。ウマ娘として活躍することで、自分が、人に笑顔と幸せを与える存在になれるのではないかという希望を抱いたのです。
 
その希望を与えてくれたのが、「しあわせの青いバラ」という絵本でした。自分も人に笑顔と幸せを与える「青いバラ」になれるのではないか?
 
ただし、ライスは、とてもそれを自分の力だけでできるようになれるとは思っていなかったのでしょう。
 
絵本の中の青年のような、自分の成長を信じて、毎日声をかけてくれる存在、少々グズっても、そんなことでは放り出したりはせず、辛抱強く、共に歩んでくれる、「おにいさま」「おねえさま」のような存在との出会いが必要だ、と。
 
 最初の、モデルとなった実在馬の部分でも紹介しましたが、リアルワールドのライスシャワーは、まさにミホノブルボンとメジロマックイーンの大記録達成がかかったレースで一着をとってしまい、レース場の大観客から歓声があがらず、静かなブーイングを受けたそうです。そのことにより、ヒール(敵役、悪役)のイメージを植え付けられてしまったのですが、おそらくこの2頭の騎手や馬主さんは、勝負の世界のことですから、何も恨みはしなかったと想像します。
 
そこまで人のことは気にせず、自分本意のマイペースでいいのではないか、と、特にセイウンスカイなどは言い出しそうですが、自分が接する人の気持ちに敏感なのは、ライスシャワーの長所でもあるでしょう。
 
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さて、途中で、「よい母親」と「悪い母親」が、赤ん坊にとって、最初同一人物だと認識されていないということを書きましたが、世間の多くの養育者(父親母親、実の親育ての親、関係なく)は、その両面を持ち、しかも自分がそういう存在であることを自覚し、時には感情的になりながらも、ある程度自制心もって子供に接しています。
 
だから、子供に「いろいろ問題もあるけど、まあ、悪くはない親だ」と思われているのですが、残念ながらこういう養育者ばかりではありません。
 
子供に接する時の態度が、まさに別人のような落差があり、ひどく溺愛してくるモードになった時と、言葉や実際の暴力や無視(ネグレクト)に及ぶ時では、とても同じ人間とは思えないような養育者もいます。
 
子供はそういう「分裂(split)」した養育者の態度に翻弄(ほんろう)され、豹変(ひょうへん)する態度と腫れ物に触るようにしか関われず、世話をし、面倒を見ているのは親の方だか子供の方だかわからないようなケースもあります。こうした現象を、「ヤングケアラー」といいます。
 
それだけならいいのですが、子供の方も自我が「分裂」してしまうケースもあります。つまり、「いい自分」と「悪い自分」が別人格になってしまうわけです。
 
これは、自分が親となった時に、自分の子供にそうした両極な態度が継承されるだけではなく、世間的には「いい人」と思われていた人が、実はその裏でひどいこともしている人間であるなどということが、さまざまな事件があるたびに報道されているとおりです。
 
少なくとも、こういう育ち方をした人は、人の善意を信じられずに勘ぐり続け、かえって親しい人間関係を樹立できない人になるかもしれません。
 
あるいは、自分に表面上は愛情を注いでくる人の甘い誘いに、まんまと引っかかりやすくなることも少なくないようです。
 
そうした人からすれば、ライスシャワーは、周囲の人(ウマ娘)に恵まれた、幸せな存在に見えるでしょうね。


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