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「ゆとり教育」の社会的背景と、それに対応した「親世代」の限界

 「ゆとり」教育については、「それまでの詰め込み教育の弊害の解消」ということばかりが強調されるが、更にその「背景」が何であるかに巨視的に立ち入ることができることが見過ごされてきているようだ。

 すなわち、ゆとり教育が、実は当時の外交的、そして産業界からの要請で成立したという側面があるという指摘を、本書ではじめて知った。

1. 輸出依存型経済から内需拡大型経済に転換するように欧米諸国から圧力がかかる
2.→「貯めた金をケチらず使う」消費拡大のために勤労者に週休2日制の導入
3.→海外へのパックツアーの隆盛・東京ディズニーランド等の建設
4.→教師への5日制の導入にあい伴い、学校5日制の導入(2002)
5.→政財界、労働界の要請(!)をも受け、文部省は授業時間短縮を迫られ、「ゆとり教育」が単なる「教育のスリム化」にすり替えられる。

 (以上、第8章「教育の自由化と学力格差」pp.132-3 岩永雅也執筆 より要約)

 こうして「ゆとり教育」とすることで、児童生徒が学校外で過ごす時間が50日分増えた。

 ところが、家庭にそれを引き受けるだけの能力があったか?

「教育は学校が行うもの」と長年信じられていたのに、教育のかなりの部分が家庭に返され、「私(わたくし)事化」されることになったのである。(同p.134)。

 この頃バブルが弾けて、多くの家庭でに塾などの教育についてのお金をつぎ込む余力がなくなり、「教育格差」が生まれる引き金となったわけだが、実は事態はそんな単純な話ではないと岩永氏は述べる。

 「親たちの社会的主体としての資質に大きな問題があったという話なのである。資質と言っても、単に学力とか知識とかではなく、挨拶や人間関係の構築といった対人能力、協調性。忍耐力などの社会的能力、身の回りで日常的に起こるさまざまな事態を理解し、それに対応する能力など。まさに『生きる力』というにふさわしい能力のことである」(p.135)

 つまり、親世代自身が、子供のモデルとなるだけの、個人としての社会性がないということになる。

 よく考えてみれば、昭和一桁世代を親として持つ、現在の親世代は、受験戦争真っ盛りの中で成長した。その競争の勝者であるしても、敗者であるにしても、ともかく「生きる力」そのものを育める教育環境・・・というより、「社会」環境に恵まれていなかったことのツケが、今度は子供の教育の際にまわってくることになる。

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 私は、親から潤沢に教育資金は出してもらえても、「真空の中で」勉強しろと要請されているようでどうしたらいいかわからなくなった。

 成績はよかったのだが、「なぜ勉強するのだろう?」と自問自答するようになり、勉強そっちのけで哲学書を読みふけったりしていた。

 しかし、哲学書の中に答えはなかった。

 そうした葛藤の解決を求めて、私は心理学への道を歩むようになったのだと思う。

 私は少し前の詰め込み教育全盛の時代に育ったが、上記のような私の彷徨は、本書に書かれたよう社会状況の一側面だったのかもしれない。

 この放送大学教材は、一見経済学的社会学の観点からの著作に見えつつ、通常の教育学よりもはるかに巨視的な視点を提供してくれる。

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