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ルールで突き刺す 小林洋平


俳優の小林です。この度地点では、作品ごとのルールブックを作ることになりました。なぜ作るのかというと、どんどん忘れていくからです。どんなことをやっていたか。なぜこんな動きをしていたか。なぜこんな喋り方をするのか。この「なぜ」を今書いておかないと、本当に忘れていくからです。

ルールブック作成に当たっては、私の記憶だけではとても覚束ないので、他の俳優の記憶も総動員して書いていきます。つまり、これは地点の公式ルールブックです。

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さて、地点で私が記憶している最古のルールは「ゆっくり喋る」だ。
あと「ゆっくり歩く」。
どのくらいか。
ex.「こんにちは」を9秒かけて言うくらい
1メートルを50秒かけて歩くくらい
その他、細かくいうと
・口は常に半開き
・目線はまっすぐ ぼんやり
・立ち姿 手はだらんと下げて手のひらを前に向ける 力は入れない 骨盤を返し、胸、手のひら、骨盤で大きな風船を抱える様にする

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これは『地点2〜断章・鈴江俊郎〜』のルールだ。2002年の作品である。結論から言うと、この作品はあまり評判がよくなかった。妙に尖った奴らだな、的な受け取られ方をした。演出の三浦がパリからの留学帰りだったことも手伝ったのかもしれない。それに長かった。上演時間が。小劇場でやる芝居なのに2時間30分。観客の4分の3が寝ている瞬間があった。

なぜか。

やりすぎた。ルールを。馬鹿正直に。

ずーーーっとゆっくり喋っていた。これはきつい。今だったら例外として普通に喋る人が出てきたり、その人とゆっくり喋る人が会話して噛み合わなくなったりするだろう。飽きさせないために。飽きてしまった。4分の3が。いや、4分の4かもしれない。寝たのが4分の3なだけで。

しかし、座組みの雰囲気はそんなに悪くなかった様に思う。むしろ、良かった。というのは、ルールが作品を貫いているので、やるべきことがはっきりしていた。方向性がはっきりし俳優はそのルールの中で自分の台詞に集中できた。
ではなぜ観客は寝たのか?
今思えば、鈴江さんが書く台詞の魅力を「ゆっくり喋る」ルールでは引き出せなかったのではないか。鈴江さんのテンポのいいウィットに富んだ日常会話をゆっくり喋ってしまっては魅力が半減してしまう。

次の文をゆっくり喋ってみて下さい。

ウ ィ ッ ト な 台詞 も ゆ   っくり 喋  る と 湿っ  てく る。 つ ま り ウ   ェッ ト。

ほら、おもしろくないでしょ。当時の客席もこんな感じだったと記憶している。
聞いてから頭の中で何回も反芻する様な台詞の方がいい。ルールが合っていなかった。

その後、地点ではあまり強烈なルールは使用されなくなった。シーンごとに形式の様なものはあったが、ひとつのルールが作品を貫いてはいない。
しかし、ある時強烈なルールが来た。
駈込ミ訴ヘ』である。「ゆっくり喋る」から11年後の2013年のことだった。

とにかく走る。
走り回るという感じではなくて、その場で足踏みしているのに近い。
エッサホイサと客席に近づいて来て台詞を喋る。
エッサホイサのリズムに合わせて喋る。ゆさゆさ体が揺れて少しユーモラスでもある。揺れ方が変わればリズムも変わり、発語のバリエーションが増えていく。常に俳優が動いているのでフォーメーションも自在だ。どんどん芝居が発展していく。
原作の設定とルールが合っていた。「駈込」んで「訴ヘ」ているのだから当然か。しかし終始駈け込んでいたので、ものすごい運動量だった。太宰はそんなにユダを駈け込ませてないのに。またやりすぎか? 大丈夫、シチュエーションも合ってるし本質も掴んでいる。それに俳優全員がユダなのだ。運動量も過剰になる。太宰も苦笑いでOKサインを出すだろう。私達は自信を持って「走る」というルールで『駈込ミ訴ヘ』を突き刺した。

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これ以降、稽古の初期はただひたすらルールを探すことになる。
台詞や動きなどのバラバラなイメージをひとまとめに突き刺すルールを。

地点の稽古は即興から始まる。
その前にテキストの精査などあるが、立ち稽古はほぼ即興から始まる。
「持ち台詞」という自分に割り振られた台詞だけで稽古をする。いつ喋ってもいい。動きも適当だ。そこから何かいいルールはないか探す。相手を見ながら台詞や動きを繰り出す。

自由なので辛い。
ルールのサンプルみたいな物を出さないとやっている意味がないし、ちょっとおもしろくしなきゃ、とサービス精神も働く。疲れる。皆、即興に嫌気が差してきてどんよりとした雰囲気が続く。時々おもしろい時がある、でも大抵は一発芸的なおもしろさだったり、ただ台詞が繋がって盛り上がっただけだったりする。

しかし本当にたまたま、「ちょっと待てこれはもしかしたらルールになりそうだぞ」という瞬間がある。そうするとどんよりとした雰囲気はサッと晴れて演出が「今やったこともう一回やってみて違うそれじゃなくてさっきのだそれそれおおやっぱりいいぞこれ」となり「よしよしここをこうしたらもっといいぞ台詞も入れてみようおいおいお前はまだ喋るなもっとあとだ分かるだろああなってるんだから次はこうなるだろ普通そしてこうしてこうこうだよ」俳優も「うるさいなこっちは初めてやってるんだよ今やろうと思ってたんだよなんでそんな知ってる様な口ぶりなのなんなの」と稽古場もヒートアップする。

でもそうなのだ。いいルールは「こうなったらこうだよね」という事が分かるのだ。そして皆がそのルールに乗っかって即興する。「いけいけいけそこもっとこうしてそうそういけいけこうだよそうだよいけいけいけ」全員で飛びかかる。絶対にルールを逃さない。稽古場が高揚感に包まれる。見つかった事が嬉しい。と同時に、もう即興がしたくないのだ。この即興が上手くいけばルールが確定する可能性が高い。「これでルールを決めたい(即興もやめたい)」という思いが俳優に力を与える。

「よしルールは大体できたなじゃあ次からもっと細かいところを詰めよう」
安堵感が広がる。と共に、焦燥感が漂い始める。時間がない。この時点で稽古期間の半分以上が過ぎていることはざらである。

以下のことは良くも悪くもルールの功績かもしれない。
作品のイメージが掴みやすい。台詞がよく聴こえる。いつも同じ事やってる。原作の雰囲気が出てる。俳優が大変そう。チェーホフってやっぱすごいな。私の知っているチェーホフじゃない。イェリネクって意外と分かるかも。キャッチコピーがつけやすい。俳優が必死だな。怪我しないでね。なるほどその手があったか。この人達何やってるの。圧倒的体験。ふざけてるのか。ちょっと真似してみたくなった。などなど。

細かく作る。それルールだったの? と観客に思われても作る。そうしないと自分達が本気になれない。
ルールは作品のコンセプトを明確にする。ルールが上手くいくと原作を自分達なりに演劇化できた気がする。
地点にとってルールとは、原作への批評でもある。

私達はテキストの精査が終わるといやいやながら即興稽古をする。作品全体を鮮やかに貫くルールを見つけるために。
チェーホフやイェリネクのイメージを具現化し、覆し、恥ずかしながら舞台上で必死になりたい。
そのためには、ルールが必要なのだ。

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