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植物譚 : 記憶の中の植物〜桑〜

当地に移住して13年経った。その間に少なからぬ人を見送った。人間ではお年寄りが多い。そして印象に強く残る木々もまた消えていった。木なんて私よりよほど長く生きるのに、人間の植えたものはまた人間の都合で伐られるのだ。仕方がないこととはいえ、目を向けるたびにそこにあったものがない喪失がさみしさとなって去来する。

移住先の町でよく使っていたATMのすぐ近く、プレハブ倉庫と道路に挟まれたスペースに大きな桑の木が生えていた。養蚕をしなくなった今、里における桑にはこれといって用途がなく、ましてや耕作放棄地でもない住宅地でこれだけ大きくなるまで置いておくのは珍しい。養蚕で使う桑の木は毎年切りやすいように仕立てているからあの背丈だけれど、桑は放っておけばあっという間に5mは超えてしまう。

ATM駐車場近くの桑の木。いまはもうない

桑は雌雄異株、1本1本が雄の木か雌の木かに別れる。たまに雄花と雌花が両方咲く木もあるらしい。ATMの帰りに、新芽から垂れ下がる花を見ると雄花なのでこの木は雄、つまり実はならない。となると実を食べるのが目的ではないし…。何か用途があるのか、それとも用途もなく持ち主がそのままにしているのかと、ATMに来るたびに勝手に思案するのが癖になっていた。

2022年の春にまた近くを通ったら、桑の木が芽吹いて花をたくさん咲かせていた。この10年で本当に立派になったなぁと、戯れに写真を撮って家に帰った。それがこの木を見た最後になった。桑の木は、夏前のほんのちょっとATMに行かない間に切り倒されて切り株だけになっていた。あんまりきれいに処理されて、葉っぱも枝も少しも落ちていなかったので、最初見た時は風景の中から何が忽然となくなっているのかわからず、しかし強烈な違和感を感じて立ち止まった。何かがおかしい、何かがない、そうだ、桑の木がない。なくなってる。見ると切り株が残されていたので近くに行ってみた。切られた小口にまるでとどめを刺すようにグリル状のチェンソー痕が刻まれていた。

人の暮らしの中で植えられた木は人の都合で切られても仕方がない。何よりも私有地であるし。しかし私にとってなじみの木は自分の位置を知る道標であり、季節や気候の到来を知る一番良い手段で、風景から突然いなくなるとたちまち迷子になる。



記憶の中で一番古い桑の木は、4歳か5歳の頃に見た実家の桑の木畑だ。まだその頃、実家では祖母が指揮をとって蚕を育てていた。4歳の子供のおなかぐらいの高さの、頂部がいびつな瘤だらけの幹が畑にたくさん植えられていて、冬はてっぺんの瘤から細く長い枝だけが何本も伸びていて、春になると葉が茂った。その葉を枝ごと切ってきて蚕に食べさせるのだ。その昔実家には蚕を飼う小屋があって、祖母と祖父が蚕を飼い、繭を出荷していた。

私が幼稚園から帰ると祖母は私に蚕が食べた後の桑の棒を集めさせた。当時、祖母の言うことは絶対だったので私に拒否権はなく、芋虫が大嫌いだったにもかかわらず鳥肌を立てながらそれを回収した。蚕を嫌がる私の前で祖母はわざわざ掌に蚕を乗せて撫でて見せた。「触ってみろ、びろうどのようだ」と言ったけど一度も触ったことはないし、これからもそれだけはない。やがて蚕が繭になりそれを茹でるところまで記憶に残っている(祖母は昔は蛹を食べたと言っていた)。そうして繭を出荷して現金を得ていたのだろう。そのへんの仕組みがどうなっていたのか祖母にもっと詳しく聞いておけばよかったと今になって思う。

そうそう、幼稚園の行き帰りに桑の実をとって食べると必ず母にばれた。桑の実の皮は薄く、引っ張って採ると手につく。それを園児服で拭く。食べる時に口の周りにも付く。口を開ければべろが真っ青。そりゃばれるよね。よく熟した実は甘く、ちょっとだけ青臭い独特の味と匂いがある。



その次の桑との邂逅はいきなり飛んで30歳。進学で移住した八王子は繊維の街だ。メインストリートの街路樹が桑だったので珍しくて歴史を調べたら生糸の生産地だった。そして生糸貿易の輸出港だった横浜へと輸送していた。甲州街道は下諏訪まで繋がっているから、周辺から下諏訪に集まった生糸も八王子に集められたのだろう。そうした文化や歴史を今につなぐものとして八王子で桑の葉を使ったクッキーなどが開発されていて、いただいて食べたらおいしかったのを覚えている。

八王子の次に出会ったのがこの町のATM横の、伐られてしまった桑の木。覚えているよ、他の誰が覚えていなくても私は覚えてるよずっと。

養蚕は蚕の卵が郵便で送れることからも国内で桑の葉の栽培ができるところならどこでも、隅々まで行きわたった大事な一次産業だったんだなと感じる。古くて大きな母屋の2階が丸ごと養蚕スペースになっていたと思われるお宅もまだあちこちで見かける。こちらに越してきて空き家の片付けを手伝った際も、養蚕部会のような組織が非常に熱心に勉強会を重ねていた様子の伺える資料を目にすることがあった。日本の近代化の中で一瞬の風のように駆け抜けた産業としての養蚕に想いを馳せるひとときである。そして思いを馳せると諏訪の片倉館の立って入る深い風呂が脳裏をよぎり、大竹しのぶ演じるおみね姉さんの声が聞こえる。嗚呼、飛騨が見える。


参考文献



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