誰にとっても、幸せは目に見えないところにあるものだと思う #幸せをテーマに書いてみよう
この投稿は、あきらとさんの #幸せをテーマに書いてみよう に参加しています。
本稿は、私が経験した事実を基に再構成したフィクションです。
本編
幸せ。
自分にとっての"幸せ"とはなんなのだろう。
ある朝、ウガンダで買ってきたコーヒー豆を、ミルで挽くゴツゴツした感触に思考を委ねながら、思わずそう呟いた。
幸せ。
まだ自分の中で確固たる考えがあるわけではない。
ただこの概念は、やはり主観的かつ独自に醸成されるものであることを痛感したことがある。
これは、ウガンダで出会ったある人物との出来事。
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ウガンダ滞在中、調査のために足繁く通った郊外のとある村。
その日もいつもどおりの時間に宿を離れると、昼過ぎにここに着いた。
今日は個別のインタビューを集める日で、私は現地のチューターについて一緒にまわることになっていた。
チューター2人と僕、それに集落の自治役員のおばさんと一緒に、中心から少し離れた家へ向かう途中に、人だかりができていた。
中心に居るのは、この集落でちょうど日本で言うところの自治会長のような役割を担っている男性。
彼は、調査をするにあたっての段取りを細やかに整えてくれた人だ。
私達一行を集落で見かけると、いつも『やぁ、調子はどうだい?』と話しかけながら大きなゴツゴツした手を差し出してくれる、とても気さくな人だった。
時には、私達が首都カンパラへ向けて抜け道をひた走る途中、反対側からやってきたバスタクシーから身を乗り出しながら握手を求めるほど。
そんな、いつもは陽気な彼が、その日は少し元気がないように見えた。
彼を囲う村人たちは、口々に彼に現地の言葉で声をかけ、握手やハグを交わしていたが、その内容を窺い知ることはできない。
『何の話をしているの?』
隣にいたチューターに話しかける。
ちょうど村の人と話し終えた彼女は、残念そうに肩をすくめてこう言った。
『彼の一番小さいお子さんが亡くなったみたい』
図らずも、そこにはこの国の"リアル"があった。
彼になにか言葉をかけてあげないと…。
必死に頭の中で言葉を紡いでいると、彼がこちらに気がついて手を振りながら歩いてきた。
『やぁ、調子はどうだい?』
いつものように手を差し出してきた。
僕は、その手を――心なしかいつもよりも強く――握り返しながら、
『元気です。ありがとう。お子さんのことを彼女から聞きました。とても残念です。』
と、当たり障りない言葉をかけることしかできなかった。
すると、彼は肩をすくめながら意外な言葉を口にした。
ありがとう、悲しいけれど、こういったことはアフリカではごく当たり前なことなんだ。だからその言葉はもうここだけでいいよ。気にかけてくれて本当にありがとう。
子どもが亡くなってしまうことを「当たり前のこと」と、かくも簡単に言い切られたことに衝撃を受けた。
一方で、この彼の短い言葉が、この国の現状や彼らの死生観に至るまでを端的に表していると感じた。
確かに、この国の子供の死亡率はかなり高い(注1)。
首都はライフラインも整っているが、少し郊外に出るだけでどれかが満足行かないくらいには貧困が根強い。
その環境が、「自分の子供が大人になるまで育つこと」よりも、「子どもが幼いうちに亡くなってしまう」ことが「当たり前」と捉えさせる遠因なのかもしれない。
一方日本では、前者が寡占していて、そのこと自体が「当たり前」になっている。
未だに明確に言語化できない、なんとも言えない気持ちが渦巻いた。
井戸で僕のことを物珍しげに遠くから眺めたり、『ハロー!』と話しかけてくる子どもたちが、とても崇高な存在に思えた。
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細かく挽いた豆を、先に水を入れておいたマキネッタ(注2)に入れ、火にかける。
しばらくすると、シューという静かな音とともに、コーヒーの芳醇な香りを帯びた湯気が注ぎ口から細く立ち上る。
もう一度、自分にとっての幸せとはなんだろう、と問うてみる。
それは、ごくありきたりな日常生活の中にある「見えないもの」の積み重ねなのだろうと、ウガンダでの経験を通じて思えるようになった。
『恋は盲目』といったのは、シェイクスピアの古典『ヴェニスの商人』のジェシカだが、特にあらゆる意味で満ち足りている現代の日本に生きる僕たちにとってみれば、幸せに対してもまた、違った意味で盲目になりうる。
on ne voit bien qu’avec le coeur. L’essentiel est invisible pour les yeux.
心で見なくちゃ、
ものごとはよく見えないってことさ。
かんじんなことは、目に見えないんだよ(注3)。
名作『星の王子さま』でキツネが静かに語るこの一節は、様々な解釈をもたらすが、こと僕が思う幸福論もこれにあたる。
目に見えないものだからこそ、そこから"幸せ"を感じ取って、大切にできる人間でありたい。
それが、いつ自分の眼前から本当に姿を消してしまうのか、誰にもわからないのだから。
マキネッタがコポコポと音を立てるようになったら、出来上がりの合図。
使い慣れたマグカップに注ぐと、一口流し込む。
今朝の僕にとっての幸せは、"朝淹れる一杯のコーヒー"なのかもしれない。
今日はこの辺で。
(2041字)※注表記を除く
脚注
注1:国連児童基金(UNICEF)が発表している『世界子供白書』の統計報告では、ウガンダの5歳未満児死亡率(出生時から満5歳に達する日までに死亡する確率。出生1,000人あたりの死亡数で表す)は53(世界192ヶ国中43位)。他のアフリカ諸国に比べると低い水準だが、まだまだ貧困が深いことが伺える。
ちなみに日本は3(同179位タイ)で、数値が日本より低いのは4ヶ国だけ。
注2:イタリア式の直火式エスプレッソマシン。アウトドア用コーヒーメーカーとしても根強い人気がある。美味しいよ。
注3:サン=テグジュペリのこの名著は数多くの翻訳版が刊行されているが、本稿では長らく親しまれている内藤 濯氏の岩波書店版から訳を引用した。こうした作品は、様々な訳者のものを読み比べたり、自分で訳してみるのもまた一興。
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