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いつも正しくはいられないという自覚を持ち続けながら、書く

その日はすごく暑くて湿度が高くて、身体中にべたべたとまとわりつく空気が不快だった。今みたいな初夏だったのか、真夏だったのか、それともまだ蒸し暑さの残る10月初旬だったのか、はっきりとしたことは覚えていない。京都は盆地だから、とにかく夏はうだるように暑いのだ。

藤井大丸のビームスで注文していた服を受け取った帰りで、わたしは四条河原町をだらだらと歩いていた。時刻はたしか昼下がりだったと思う。大通りはいつにも増して騒がしくて、なにかあったのだろうかと道路の方を見るともなく見ていた。大勢の人が何やらプラカードのようなものを掲げて、道路を練り歩いている。すると突然、視界にある文字が飛び込んできた。

「いい韓国人も悪い韓国人も、死ね」

あ、と思ったときには、地面にしゃがみ込んでいた。漫画みたいに膝から崩れて、とっさにガードレールに縋り付く。排気ガスで煤けた白い鉄はざらりとしていて、汗ばんだ手のひらを汚す。反対の手を口元にやるが間に合わず、気がついたときには嘔吐していた。

お気に入りのTシャツを汚したくなくて、吐瀉物が付かないないように押さえる。高校生のころから大切に履いていたくたくたのリーバイス501に汚れが飛び散ったのを視界で確認しながら、せっかくここまで育てたのにな、なんてどうでもいいことをぼんやり考えた。

周囲に人が寄ってきて、大丈夫? と声をかけてきた。うるさいな、と反射的に思う。こういうとき声をかけることを躊躇わないのは、東京との大きな違いのひとつだ。どちらがいいとか悪いとかじゃなくて、少なくともこのときのわたしは、放っておいてほしかった。

返事をしないわたしを心配してくれたおばさんがデモ隊を制する警官に声をかけに行くのが見えて、背中に嫌な汗が伝う。でもそのときはもう過呼吸も起こしていたから、「大丈夫です」と言葉を発することも立ち上がっておばさんを制止することもできなかった。

2人組の警官は、すぐにうずくまるわたしの側に来た。中年と、今のわたしくらいの30歳前後の男性と。「どうしたの?」「お姉さん、お酒飲んだの?」と声をかけられ、わたしは口の中でちいさく、飲んでねえよと言い返す。その口調が癇に障ったのか、中年の警官が身分証を出せと言ってきた。まだ20歳だったから、未成年である可能性を疑ったのだろう。

あ、やばい、と思った。今ここで、この騒ぎの中で、身分証なんて見せたら。わたしの保険証は、そのときはまだ名前の表記が韓国名だったのだ。一瞬ためらったわたしに、中年の警官がきつい口調で急かす。逆らうこともできずに、わたしは尻ポケットに突っ込んでいた財布を痙攣する指で取り出して、保険証を見せた。

ますます訝しげに眉を寄せる中年警官が、「ガイトウある?」と訊ねてくる。頷き、財布のいちばん奥に隠してある外国人登録証明書を渡した。「日本語わかるんか?」と問われ、わたしはもう一度首を縦に振った。

いくつか質問をされて、すぐにわたしは解放された。成人していたし、外登もちゃんと所持していたから、当たり前といえば当たり前だが。終始横柄だった中年警官とは違い、若い方の警官はわりに親切だった。

「こんな騒ぎの中じゃ、しんどくもなるよなあ。軽い熱中症かもしれんから、気分悪いの続くようやったらちゃんと病院行きや。おうちの人、迎えにきてもらった方がええんちゃう?」
感じの悪い警官はたしかにいるけど、市民のことを心の底から思ってくれている警官だってたしかにいるのだ。サッカーの試合で「日本の大震災をお祝いします」なんていう下衆な横断幕をかけるクズな韓国籍の人間もいれば、それこそ寄付をして胸を痛めてくれる韓国籍の人間もいるのと同じで。

大丈夫です、1人で帰れます、と返して、わたしはまだ震える脚に鞭を打って立ち上がった。どこからか別の警官がもう1人、箒とちりとりを持って現れる。わたしの吐瀉物に砂のようなものをかけて、手早く処理をしていた。短く礼を言って、わたしは駅を目指して歩き始めた。

ずっと、忘れていた。あのプラカードの、黒く太いマジックで書かれた、あの文字を。純然たる悪意を。

思い出したのは、このあいだのことについてぐるぐる考えていたからだと思う。複数人から向けられる問答無用の悪意は、この文字と似ている。わたしが何を考えて、どう感じて、どんな意見を持っていて、どう思っているか、この人たちにとってはどうでもいいことなのだ。わたしがもし仮に完全なる善人だとしても、彼らはきっとわたしを嫌う。わたしが日本にも(そしてロシアにも)ルーツを持つことを知っても、現在は日本国籍を取得していることを知っても、たぶん変わらない。

わたしは、どうだろう。常にフラットな視線を持っていたい。所属するグループで個人の性質を決めつけたくない。でも、いつもきちんとそういられているか、自信はない。

常に疑い続けなくてはいけないと思う。偏見や差別は、「自分にはない/しない」と思い込んでいる状態こそがもっとも危険だ。いつだって正しくいられるとは限らない。だからこそ、繰り返し己に問いかけていなくてはならない。こうして書いていくと決めたのならば、なおさら。

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