見出し画像

「書く」ことを手放したくないから、「伊藤チタ」になった。

「ああ、もう"チカゼ"として書いていくのは無理だな」と思ったのは、正直に言うと去年の今頃だった。それでも、どうしても名前を変えるのは嫌だった。だから苗字をつけたりして、なんとか折り合いをつけようとこねくり回したりしてみたのだけど、駄目だったみたいだ。

寛解していたうつが再発したのが、昨年夏。「あるひと」から継続的に受けていた恫喝が原因である。その詳細はここに書くつもりはない。いつか書けたらと思うけど、結局ぼくは卑劣な手段で口を塞がれた。それに対抗する手段がないわけじゃないけれど、今の精神状態を鑑みるととてもじゃないけど実行には移せない。

「あるひと」は何度も何度も、「チカゼさん」と呼びながら嫌味と暴言を吐き、ときには電話口で怒鳴り散らしさえした。精神疾患のせいで仕事がままならない時期、「(病気とうまく付き合うことができず仕事ができないなんて)ありえない」などと人格否定までされ、再発するのはあっという間だった。

ぼくと「あるひと」は本来、対等な関係であったはずだ。それがいつしか「あるひと」が高圧的になり、ぼくは怯えを抱くようになっていった。それは「あるひと」の影に父を見ていたからだろう。捲し立てるような話し方、こちらの言い分をすべて”言い訳”と切り捨て、自らの”正しさ”を絶対的なものだと信じ込み、それを躊躇いなく相手に押し付ける態度。そのすべてが、父にそっくりだったのだ。

それに気がついたのは、「あのひと」から離れてからずいぶん経ったあとのこと。だから当時、「あのひと」に対して過剰に萎縮していたのかと腹落ちした。

この出来事のあと、「チカゼ」という文字列を見るたびに「あのひと」の顔が思い浮かぶようになってしまっていた。SNSで呼びかけられると、「あのひと」の声で「チカゼ」が再生されるようになった。以前の本名で呼ばれるとき、父の怒声がフラッシュバックするのと同じように。

それはぼくにとってこの上なく耐え難いことだった。「チカゼ」はそもそも、適当につけた名前ではある。たまたま公募に小説を出すときTVで総合格闘技番組がやってて、それにギガ・チカゼという選手が出場していて、「これでいいじゃん」とノリでつけただけだ。でも独立してからずっと、「チカゼ」という名で、文章を書いてきた。

理不尽な目にもたくさん逢った。謂れなき中傷を受けたこともあった。でも同時に、「ひとりじゃないと思えた」「自分がずっとモヤモヤしていたことを言語化してくれた気がした」「救われた」と言ってもらえた対象だった。

文章は自分の手を離れた途端、それはもう自分だけのものではなくなる。文章と読者とのあいだに発生したものがすべてで、思うように受け取ってもらえないことのほうが多い。そのことに対して、書き手は文句を言えない(もちろん意味不明ないちゃもんは例外だけど)。

その化学反応を生み出していたのは「チカゼ」だった。適当につけた意味を持たぬただの記号が、意味のある名前に変わった。あらゆる差別に反対し、できるだけ裸のままの文章を差し出す。そうやって書いてきたのだ。愛着が湧かないほうがどうかしてる。

でももう、限界になってしまった。改名をしたら「あのひと」に負けたような気がして嫌だったから、苗字をつけてどうにか足掻いてみたけれど、「チカゼ」に染みついた「あのひと」の怨念はついぞ消え去ってはくれなかった。「チカゼ」でい続ける限り、「あのひと」と永遠に繋がり続けてしまう気がした。

そして8月、発作的にすべてのSNSの名義を変えた。IDを変え、新しいアドレスを取得し、現在のクライアントに連絡をした。苗字をつけるときには散々迷ったくせに、新しいペンネームは意外なほどあっさりと決まった。結局、「苗字をつける」行為自体が悪あがきに過ぎなかったからだろう。半年ほど使用したその名前は、驚くほど自身に馴染まなかった。自分の名前だと認識できなかった。

「伊藤チタ」は、画数が悪い。でも、縁起のいい名前だ。そしてある皮肉も含んでいる。改名時、いろんなひとに「良い名前!」と褒めてもらえて、お気に入りになりつつある。変えてから2ヶ月ほどのあいだ、伊藤チタ名義の記事がいくつか公開となった。まわりのひとたちも慣れてくれつつある気がしている。「チカゼ」のイメージが、少しずつ薄れていくといい。

「チカゼ」でなくなってしまったとき、自分で決めたことなのに、悲しくて悲しくて泣いてしまった。想像していた以上に、「チカゼ」はぼく自身だった。嘆くぼくに友人がかけてくれた言葉を引用して、いったんこの報告とも説明とも言えない散文を締めようと思う。

「チカゼ」は優しく包んでおこう。ちぃくんの大切な一部。さようならできる時に改めてすればいい。ちぃくんの言葉たちを丁寧に誠実に染み込ませてきたんだもの。そしてこんにちはチタちゃん。また新しく、丁寧に誠実に言葉を染み込ませてゆくと思うから。

不思議なのだけど、「チカゼ」にちゃん付けをされることには不快感を覚えていたのに、「チタちゃん」と呼ばれることには抵抗がない。どちらも性別を限定しない印象の名前だけど、「チタ」のほうがほんのり男性的なにおいが強いからだろうか。

傷は癒えない。再発したうつは、絶えずぼくを揺さぶる。増えた抗うつ剤の影響で、日中も眠気と闘いながら生きている。思うように仕事ができない。もどかしくて、焦っているけれど。それでもいい加減、リスタートしたい。ぼくは「書く」ことを、どうしても手放したくないのだ。

以下に「伊藤チタ」に込めた意味を記しておく。あえて有料にするのは、「チカゼ」じゃなくなってもぼくの文章を読み続けてくれるひとたちだけに明かしたいから。

ここから先は

796字

¥ 500

読んでくださってありがとうございます。サポートは今後の発信のための勉強と、乳房縮小手術(胸オペ)費用の返済に使わせていただきます。