見出し画像

キャパシティはそれぞれなので

「チカゼさんってお休みの日は何してるんですか?」の問いに、洗濯して食器洗ってますねと答えたら、その場がどっと沸いた。ビールジョッキを持ったままきょとんとしていると、隣にいた若い女性社員が「チカゼさんって天然ですね」と笑いながら肩を叩いてくる。斜め前方に座った同じチームの男の子が、「それは普通に家事っすね」と笑う。

あ、これって「本当に休日にしていること」を訊かれてるんじゃないんだ。気がついた途端、カッと頬が熱くなるのがわかった。趣味を訊く定型文なんて、長らく自営業をしていた自分には知る機会などなかったのだ。

修士を修了したあと、予備校の講師として2年ほど勤務した。業務委託契約だったから、つまるところ最初からフリーランスとして「社会人」を始めたことになる。やがて学生時代から細々とライターをしていた経験もあり、「ものを書く仕事を本業にしたい」という気持ちが高まって、夫と相談した末に一度就職してみることにした。

エッセイやコラムで連載を持ってみたいが、それじゃ到底食い扶持は稼げない。だったら何か技術と実績をつけてから独り立ちするのが安牌だろう。そんな考えで某広告代理店にライターとして勤務し始めた。とりあえず1年は頑張って、それからフリーになったほうが余裕も持てる。

幸い勤務先の雰囲気は緩く、服装や髪色の規定もない。面接での社員さんの雰囲気も良かったし、期限を設けていればそれほど苦もなく通えるだろうと思っていたのだけど。

2ヶ月経ったころからだろうか、オフィスのトイレで嘔吐するようになっていた。意地悪な人がいたわけでも、嫌いな人がいたわけでもない。コミュニケーションは円滑だったし、周囲の人たちはみんな親切だったし、新入りのぼくを気にかけてくれた。出勤時間も遅めだし、定時が来れば「帰りましょう!」と上司が促してくれる。

それなのに、どうして。

嘔吐は次第に頻回になっていった。3日に1度が1日に1度に。吐き気を催していることを知られたくなくて、煙草に行くふりをして席を立つ。同じフロアのトイレを使うとにおいで気づかれるから、わざわざ別のフロアの、あまり使われていない電気のチカチカするトイレへ駆け込む。そして口をゆすぎ、ブレスケアを多めに噛む。それから喫煙所に行って煙草を吸って、もう一度ブレスケアを口に放り込む。

これでたいていは気づかれない。煙草とブレスケアのおかげで、饐えたにおいはかき消される。

しかしそのうち通勤中の電車でも吐き気を催すようになり、幾度か途中下車してしまうようになった。これでは持たない。そう判断し、次の契約更新はせずに退職した。初めての「会社員」は、わずか9ヶ月しか持たなかった。

§

先日、学生時代のサークルの友人たちと新年会をした。そのうちの数名とは頻繁に会っていたものの、サークルのみんなで顔を突き合わせたのは実に3年ぶりのことだった。

人の少ない、ソーシャルディスタンスのじゅうぶん取れる、換気のしっかりされている店を選んで決行した新年会では、会えずにいた間にみんなにもさまざまな変化が起きていたことが判明した。結婚した人、長く付き合った恋人と別れた人、離婚した人、子どもが生まれた人。まだ新生児だというので写真を見せてとねだったら、ぷくぷくころころした愛らしさの塊が画面を占拠していたので笑ってしまった。

やがて二次会に移ると、ぼくの現在の仕事の話になった。「自分で営業かけて自分で仕事とってんの? すごいね〜」と褒めてくれる友人に、酔いも混ざってふと本音を漏らす。いやあ、昔はコンプレックスだったけどね。なんで普通に働けないのかわかんなかったし、きつい職場でもないのに毎日吐いたりしてて、どうしてみんなが当たり前にできることが自分には当たり前にできないんだろうってけっこう悲しかった。

そんなふうに愚痴ると、「いやもう、キャパシティはそれぞれだから」とすべての方向から突っ込みが入った。「君の体には通勤するのが合ってなかったんだよ」「ていうか苦手なことはだれにでもあるから」etc。いやいやでもさあ、みんな嫌な人いても我慢して通勤してんのにさあ〜とうだうだゴネる。

「ちーちゃんは大勢の人と接するのが疲れちゃう体質ってだけなんだよ。この人が人見知りで大勢の前では口聞けなくなっちゃうのと同じで」
唐突に話を振られた人見知りの子がびくりと肩を跳ねさせ、それがかわいそかわいくてちょっとウケた。

そっか、体質かあ。

ぼくは基本的に、愛想がいい。それこそ人見知りでもないし、初めて会った人ともそれなりに会話を弾ませることができる。あまりよく知らないだれかとの交流を、さほど苦とも思わない。

そんなぼくの性質を知っているから、通っているメンクリの主治医もカウンセラーさんも、当時ぼくの体調の崩し様に頭を抱えていた。自分でも苦痛な点などひとつも思い浮かばぬほど恵まれた職場なのに、いったいなにがこれほど心身に影響を及ぼしているのだろう。なにが自分にとって辛いのだろう。原因がさっぱりわからない挫折は、自尊心をうっすらと削った。

でも体質ならもう、仕方ないか。たくさん人がいる環境、そのものが辛い。他者との交流自体は苦じゃなくても、長時間続くと疲れてしまう。で、それは根性なしなわけでも甘ったれてるわけでもない。そういう体質なだけだから。

得手不得手、当たり前だけどそんなものは個々人で異なる。たとえ大多数の人にとって「ふつう」のことでも、ぼくには「ふつう」にこなせないことだってある。あったっていい。そしてそれとは逆に、ぼくにとって「ふつう」のことでも、だれかにとっては著しく困難なことだってあるのだ。

終電が迫っていたので、「先に帰るね」とジャケットを着て立ち上がる。またねと手を振りながら店を出ると、冷え込んだ空気が襟元から差し込み、体を震わせてジッパーを引き上げた。駅へ向かう足取りが軽いのは、酔いだけのせいじゃなかった。

この記事が参加している募集

#この経験に学べ

53,658件

読んでくださってありがとうございます。サポートは今後の発信のための勉強と、乳房縮小手術(胸オペ)費用の返済に使わせていただきます。