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「バチが当たるよ」の本当の意味

記事の更新、ずいぶんと間が空きました。

「ノイズ少ない生き方」を実現するため、数年前から持ち物と精神面の不要なものを手放す活動を続けています。

しかし、特に精神面のこびりつきはただ手放すだけではノイズは消えないこともしばしば。そのためには「なぜそうなったのか」や「こういう経緯があったのか」などの発見により、自分なりに『腑に落ちる』ことが必要です。

今回は久しぶりに「腑に落ちた」ことがあったので嬉しくなって筆を取りました。

ちなみに申し訳ないですが前回の続きの記事ではありません。ひらにご容赦下さい。


目次



■「バチが当たるよ」と言われ続けて


僕には幼い頃から母親に言われて来たことがあります。

「神様仏様に嫌われたらバチが当たるよ」

実はこれが僕に絡みついた怖れの一つでした。

この怖れは結果的には僕に良い影響を与えたのですが、以前の僕はちょっとでも神仏の怒りを買うような行動をするとバチが当たると思い込み、そこから強迫神経症のような状態に陥っていました。

この強迫観念は僕に付きまとい、イジメなどの本来なら反撃すべき状況においても、ひたすら我慢してやり過ごすようになってしまったのです。

それは仕事上でも同じでした。数年前、外注として関わった会社で無責任な社員による仕事ミスが連発し、一緒に仕事をしていた僕はクレーム対応を丸投げされ、ついに心と身体を病んで仕事ができなくなったのでした。

その遠因から書いていこうと思います。



僕の母方の実家は修験道と呼ばれる山岳密教系のお寺でした。山伏の格好で険しい山中で修行している人達と言えば解りやすいでしょうか。僕の母も祖母も奈良の霊山にて僧侶の資格を得ました。今では僕の弟が家を継いでいます。

母は生まれつき治癒の能力を持っており、それが修行によって開花したようです。霊能というと色眼鏡で見る人が多く、家以外では一切口にしませんでしたが、僕が子供の頃には人づてに評判が広がり、重いリウマチの女性などが通って来ていたのを憶えています。

母は僕が小さい頃に坐禅や読経を教えてくれました。ご褒美におやつが待っているという母の作戦もあり、僕は週に1回、近所の子ども達と一緒に坐禅を組み、十善戒やご真言を唱えていました。

なので幼い頃から神様や仏様、霊の存在は僕にとってごく普通のことでした。



ただ母は、原因は色々あったのでしょうが、常に心の奥に激しい怒りを抱えていました。日頃は優しい母なのですが、子供が反抗すると顔つきが変わって暴言を吐き始め、火のついたマッチを僕の服のポケットに投げ込むなど虐待と言える暴力をふるっていました。

母のことはもちろん好きでしたが同時に恐怖を感じる存在で、母の機嫌が良い時でも自分の正直な気持ちを口にするのは憚られるほどでした。やがてそれは母親に対してだけでなく、家族や友人そして社会人になってからの対人関係にも影響していきました。


また、母はしばしば「神仏のバチが当たる」と言っていました。

これは本来なら親が子供を躾ける際の常套手段ですが、日頃から神事(かみごと)と違和感なく共存して来た僕にとっては、霊能を持ち、その上容赦なく子供に暴力をふるう母親の言葉は子供騙しには思えませんでした。

そして僕はいつしか

「母の言葉に逆らうことは神様仏様の怒りを買うこと」

と思うようになりました。


それだけ母親の怒りが恐ろしかったということでしょうね。実際に神仏からひどい仕打ちを受けたことはないのですが、なぜかそこを繋げて信じてしまったのです。


こうして僕にとって母と神仏は「機嫌を損ねたらひどい目に遭わされる存在」となりました。ちなみにこの神仏への畏れが強迫化するのはキリスト教社会でもあるようで、神の罰が怖くて教会の奉仕活動は絶対参加、嫌な相手にも「人を愛せよ」の観点から「健全なNO」が言えないなどの事例を時々聞きます。



■神仏は人間を嫌うのか、無条件に愛し続けてくれるのか



その後いろいろあって生き方を180度変えたくなり、数年前から持ち物と精神面のしがらみを手放し始めました。その頃キリスト教に興味を持ち3年ほど教会に通いました。そこで牧師さんの「神は人間が神を敬うから愛を返すのではなく、まず先に神の方から人間を愛している」という説明にショックを受けました。また、旧約聖書の荒々しい神は新約聖書のイエス・キリストの父である慈愛に溢れた神と同一人物であることも衝撃でした。

キリスト教と仏教、日本の神とは違うという意見もあるでしょうが、神仏とは常に冷徹で、規定から外れた人間は見捨てられると思い込んでいた僕は、この経験から考え方が変わり、母親と神仏のバチにがんじがらめだった心は少しずつ解き放たれていきました。


しかしただひとつ、きちんと腑に落ちていないものがありました。
それは神仏に ”嫌われる” という母の言葉。

一方、「神は罪人でも愛して下さる」とか、親鸞聖人の「善人なおもて往生を遂ぐ いわんや悪人をや」という教えもあります。神や仏は人を嫌うのか、何があっても無条件に愛し続けてくれるのか。

一体どっちが正しいんだろうとずっと考えて来ました。

※ちなみに僕が考える宗教の教えとは、天からのメッセージを人間が受け取って言葉や文字にしたもので、受け取る人の性格によって少しずつ異なるのは当然だと思っています。神仏は人間を嫌うのか無条件に愛してくれるのかという問題も、宗教によって答えは様々でしょう。ここではあくまでも僕個人の理解として書いています。「これが正しい」という主張ではありませんのでご了承ください。


■悪事をしない価値



少し本題から外れますが、大抵の人々は赤ん坊から大人になるまでに、親子間や友人との間で起きるもめごとや事件を介して「これはやっちゃいけない」という線引きが出来ていきます。それぞれ多少の違いはあれど、人を殺しちゃいけない、人の物を盗んではいけないなどの大まかなラインは合っているでしょう。それは十戒とか十善戒そのものです。

ですが昨今はごく普通の人がストレス発散のためか、ネット上で激しい誹謗中傷をして自殺者が出るなどの問題が起きています。これはSNSの匿名性が原因ですがそれだけではなく、加害者は倫理的な規範はもちろん知っているけど、誹謗中傷という暴力行為を「なぜしてはいけないのか」という疑問に取り組んだことがないのと、「悪事をしないことの価値」を理解していない状態に陥っているからではないでしょうか。


その「価値」について、事例として僕の恥ずかしい過去話を一つ。まだハラスメントという言葉が無かった時代のこと。ある上司から嫌われた僕は毎日会社で怒号と暴言を食らい続けていました。他の人もその上司が怖くて手を出せない状況で、僕は耐え切れなくなって会社を辞めることにしました。

退職したその日、怒りが抑えきれなくなった僕は、せめてもの腹いせにその上司の愛車に傷をつけてやりたいと本気で考えました。

工具を持ってこっそり会社の駐車場に戻った僕。ラッキーなことに監視カメラの死角に奴の車はありました。

でもどうしても車を傷つけることはできませんでした。肩を落として帰宅した僕は、いつの間にか清々しい気持ちになっていることに気づきました。

上司への怒りが消えた訳ではありません。思い出すと今だにムカムカするくらいです。しかしその時は不思議と怒りよりも清々しさが勝っていました。

車を傷つけなかった理由はもちろん「悪いことをすればバチが当たる」という教えが沁みついていた為でしたが、それよりも

「人を傷つけたいという悪い誘惑に負けたくない」

という人間の矜持というか自負が土壇場になって強く現れたのです。その気持ちは「嫌がらせしてやる」という卑しい気持ちよりもずっと気持ちよく誇らしいものでした。

理性的で良心的な自分を保っていられる。これが「悪事をしないことの価値」ではないでしょうか。


バレなきゃ何をやってもいいという考え方は、しばしば被害者意識と共に悪事を実行する際の言い訳に用いられます。そこに釘を刺す「バチが当たる」という言葉には

「神様仏様は見てる。死んだら地獄に落ちるよ。だから止めておきなさい」

という警告と共に

「悪い誘惑に負けない強い自分になれば、自己肯定感を上げて満足を感じられるよ」

という気づきを促す側面があると思っています。



■「祓い給え清め給え」の本当の意味



神仏の存在を信じない人には、バチが当たると言っても効き目がないかもしれません。しかし良心的な自分を保てる価値については多少は耳を貸してもらえる可能性があるかなと思っています。

しかしまだ「悪事を行った人間を嫌う神仏」=「罪人も分け隔てなく愛する神」の構図は説明できていません。もう少し、自分が納得できる答えはないものか。。。


そんなことを考えていたある日、ネットで幕末に活躍した山岡鉄舟の逸話に出会いました。有名な話らしく複数の記事が並んでいました。

ある日、鉄舟の弟子のひとりが
「自分は毎日神社の鳥居に小便をひっかけているがバチが当たったことはない。神仏のバチなどデタラメだ」
とうそぶいた。
その弟子に向かって鉄舟は「お前はバチが当たっていることに気づいてない。鳥居に小便をかけるなど犬畜生のやることだ。おまえはすでに犬畜生と同等なのだ」


見事な説法ですがやはり疑問が残ります。「自分は人間のままだもーん」と気にも留めない輩もいるでしょう。これってバチと言えるのかな、と。


そこまで考えて「あっ!」と僕は気づきました。



神仏のバチとは
神仏からのメッセージを
受け取れなくなることではないか?



これが僕がたどり着いた「腑に落ちた答え」でした。


神社の祝詞の中に「祓い給え清め給え」という一節があります。

神に祓って欲しいのは何か。多くは「穢れ」という答えでしょうが、僕はずっとそこに違和感を感じていました。

ちなみに「穢れ」の意味は、”忌まわしく思われる不浄な状態” 。具体的には「死」や「血」だそうです。

確かにそれは正解だろうけど、もっと深い意味があるのでは・・・。そして数年、ようやくヒントを見つけました。

それは今では懐かしい映画、ウーピー・ゴールドバーグ主演「天使にラブソングを2」で、子供たちが歌った「joyful joyful」でした。



ソロパートでローリン・ヒルが心に沁み渡るような声で歌う中に

Melt the clouds of sin and sadness
Drive the dark of doubt away

という歌詞があります。日本語訳すると

罪と悲しみの雲を溶かして
疑いの闇を追い払う

「祓い給え清め給え」とは、ここに歌われている「罪の雲や疑いの闇」のことを指しているのではないでしょうか。


人を死に追い込む誹謗中傷のような明確な罪はもとより、様々な暴力行為によって真っ当な人間で居続ける努力を投げ出してしまうと、「俺は間違っていない」と嘯きながらも、自らを良心的な存在と思えなくなっていきます。その気持ちを誤魔化すためにまた罪を重ねる人もいるでしょう。その暗い想念はどんどん分厚い雲や闇となっていく。

神仏は無条件に人間を大切に思っている。だから「こうしたら良いよ」「今がチャンスだよ」などのメッセージを万民に惜しむことなく送っている。しかしこうして受け取れないと、人はやがて向かうべき道を外れて悪循環に陥って行くのではないでしょうか。


※ちなみにこれは災害や事件に巻き込まれて亡くなったりケガを負った方々について、その人達が全て天からのメッセージを受け取れない悪い人達だったと言うことでは決してありません。

これについてはいずれどこかで記事にしようと思っています。どうかご了承下さい。



■お天道様が喜ぶ選択を




日本には古くから「お天道様に顔向けできないことはしてはならない」という教えがあります。

社会人時代にいろんなビジネス哲学を学びましたが、その中でも経営の神様と呼ばれる稲森和夫氏の

「お天道様が喜ばれる判断をしなさい」

ということばは今も僕の生きる上の道標となっています。


現在、世界には不安と怖れが蔓延しています。自然災害や経済、戦争の脅威などいよいよ不穏さの増大しつつある現在においていかに生きるか。

それには有限の存在である人間の頭だけでものを考えるのではなく

「Something Great」

と呼ばれる無限の存在を意識し、そこからのメッセージを受け取れるほどに心がクリアになっていく、つまりノイズの少ない状態を保つことで、悲惨な戦争や資源の奪い合いをはじめ、社会に蔓延する差別や暴力の愚かさを強く拒否する人間の矜持を維持して行けるのではないでしょうか。

その為に宗教団体に入会しなければならないかと言うと、正直な所、僕はそこまで必要とは思っていません。ただ、日々の暮らしの中でお天道様に真っ直ぐに向かい合える自分でいられるように努力を続けることが大切であり、それは多くの人がこれまで生きて来た中で必ず知っているものだと思うのです。


禅語に「安心立命」という言葉があります。辞書には

心を安らかにして身を天命にまかせ、どんなときにも動揺しないこと 

goo辞書

とありますが、こういう解釈も可能ではないでしょうか。

お天道様の喜ぶ生き方を続けていれば神仏のメッセージは届きやすくなる。それは心安らかな生き方であり、ノイズの少ない生き方そのものです。そしてクリアになった自分は立ち上がり、今度は隣人に、社会に自分が受け取った智慧と慈愛を分かち合う。大乗仏教はまさにこういう流れで興ったのではないかと僕は考えています。



僕は心身を病み、好きだった仕事も出来なくなって数年間引きこもり状態になりました。しかし幾つものありがたいめぐり合わせのおかげで気づきが生まれ、少しずつ怒りが消えて行きました。

まだまだ一時の感情に流されてしまう未熟者故に、これからもお天道様を意識しながら、母が教えてくれた坐禅を続けていきたいと思います。


最後に、文才の無さで6,000文字に迫る長文になってしまいました。途中で切るとまた続きを書かないままになりそうで一気に書き終わりました。

中盤でも書きましたが、これはあくまでも僕の個人的な見解です。西洋の絶対神と日本の自然神はそもそも違う存在だという意見もありますでしょう。
たくさんのいろんな角度から見た考え方があるのが当然だと思っています。

読まれた方の中には、お持ちの価値観やご理解とは異なる点があると思いますが、最後までお読みいただき心よりお礼申し上げます。ありがとうございました。













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