こぼれる
春。梅の花を見ている。
ほころぶ。こぼれる。梅の花にそえられる言葉。
長く保ってきたものがあふれてゆくような、こぼれるイメージの近くで梅の花は咲く。
こぼれる、というと思い出すことがある。
長い小説を書いていたころ、文章のことをひとつひとつ教えてくれた人がいて、私が書くものをいつも読んでくれた。書ききることができなくて、指がとまってしまう。その書きかけの小説について話していたとき、その人が言った。
水を運ぶというのは、むずかしいんです。どうしたってこぼれてしまう。
伝えようとしてくれたことのほとんどを今もほぐしきれずにいて、でもその比喩だけ、とてもよく憶えている。ときどき考えている。
水を運ぶということ。
水瓶を抱いて遠くに運んでゆくこと。文章に限らないな、と思う。ものをつくることも。仕事をすることも。生きることもそうかもしれない。
一滴も漏らさず運びきることはとても難しい。そうあろうとすると苦しい。
でも水って涸れてしまうのだろうか。注いでもらうこともあるし、自分のなかからこんこんと湧くこともある。
ひび割れからこぼれた水が沿道の草木を潤すかもしれない。ほころびから受けとるものもたくさんある。
そのいっぽうで、ねじを締めるようにきちんと保って、運ぼうとするから届けられるものもある。届けようとする意志で運んでゆくから、伝わるし、受けとったほうも、それを大事にしたくなる。梅も、一年ただひたむきにたくわえてきたから春にほころべる。
保つこと。こぼれること。たぶんどっちも大事なんだと今は思う。こぼれることを肯定しながら、それでも水を運んでゆくこと。
伊庭靖子さんの絵にふれたくて、美術館に行った。ガラス作家の山野アンダーソン陽子さんがつくったガラスを見て、画家が静物画を描く。
実際のガラスと、描かれたガラス。
伊庭さんはそこにある質感を描いてゆく。
人間って、人と人との間、と書くけれど、ものと人との間に、質感ってあると思う。存在と存在のあいだ。そのあわいに、存在からこぼれてくるもの。梅の質感。ガラスの質感。人の質感。あわいにこぼされたもの。
質感を描くということは、その存在からこぼれてくるものをまなざして、それを掬うことだと思う。伊庭さんの作品に心打たれるのは、そのまなざしや手つきで、こぼれたものを真摯に掬っているからだ。
こぼれる、ということの近くには、掬ぶ、という行為がある。
咲きこぼれた花を小鳥がついばむ。だれかの書いたものを大事に読む。絵を見て静謐な気持ちになる。滴る水を大地が受けとめる。水を運ぶその先にも掬ぶ、といういとなみがある。
そっと手をそえて、ただ真摯に掬ぶ。その佇まいからあふれてこぼれてくるものもある。そうして交わしあっているんだと思う。
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